宗教大博覧会

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
宗教大博覧会会場の岡崎公園に建てられた大本館。

宗教大博覧会(しゅうきょうだいはくらんかい)は、昭和5年(1930年)3月8日から5月6日まで、京都市内の岡崎公園[1]と知恩院を会場にして開かれた博覧会。日本歴史会が主催、京都市が後援、知恩院が協賛[2]して開催され、大本も「大本館」を建てて出展した。正式名称は「宗教大博覧会」だが、大本文献や報道記事では「宗教博」「宗教博覧会」と呼ばれる場合が多い。

  • 知恩院(浄土宗総本山)における善導大師(中国浄土宗の高祖)1250年忌を機会に開催された。[3] [4]
  • 翌昭和6年に天恩郷に建てられた更生館は、宗教博の大本館を模して造られた。[5]

資料

昭和4年頃の岡崎公園の位置と範囲。現在と変わらない。地図の左方が北になる。(昭和4年発行の『大京都市街地図』より)

次は『京都日出新聞』の引用である。【凡例[6]

愈《いよい》よけふから 幕あく宗教博
岡崎公園と知恩院の二会場で
いろいろの余興もやる

浄土宗知恩院における善導大師一千二百五十年[7]の御遠忌を機会に開かれる宗教大博覧会はいよいよけふから岡崎公園と知恩院境内の二会場で京洛の春に魁けて開会される、第一会場である岡崎公園第二勧業館の入口にはローマの寺院建築に則つた円柱三基を立てて、神、仏、基三教を意味する月輪、卍字、十字の表章を頂点に飾り燦然たる金銀赤が色とりどりに映発して宗教気分をみなぎらせてゐる。
門を這入つた西側は経費五万円を投じたといふ大本館で祭壇を設けて入場者の随意参拝の便に資し出口総裁の親筆一千余点の陳列を始め建築様式に大本一流の色彩を出してゐる。松坂屋の商品館は本館正面に贅沢な意匠と妍麗[8]《けんれい》な装飾とを以て勧商的な博覧会気分を出してゐるが各府県の陳列も八分通りは出揃つてゐる。呼物となつてゐる地獄極楽館は第二宗教館にあるが館外余興として「魔の墓所」「不思議の䉤」の迷路を辿つて「怪寺院」に達する趣向が凝らされ怪奇的な情景が老若男女の人気に投ぜんとしてゐる。この外商品陳列所階上には善導大師の讃仰展《さんがうてん》があり、第一宗教館には大谷光瑞氏秘蔵の名品を始め各宗派を網羅した稀世《きせい》の国宝、法衣類、修験道服具その他興味深い知識階級の参考資料が出陳されてゐる。
なほ開期中第二会場たる知恩院山内華頂会館で各種の余興や演芸を催す事になつてゐる。

{{#if:『京都日出新聞』昭和5年3月8日朝刊p3|
出典:『京都日出新聞』昭和5年3月8日朝刊p3
}}

宗教博
雨に祟られた第一日

今迄にその類例を見ず破天荒の企てとして喧伝された宗教大博覧会は愈《いよいよ》八日から岡崎公園及知恩院境内の両所で蓋を開けたが折からの雨で出足をくぢかれた形である。呼物の一である第二宗教館の地獄極楽の表現は予想以上の好方法を示し特に電気照明が最も効果的に施され又館外余興「魔の墓所」「不思議の薮《やぶ》」は迷路を辿つて中心地怪寺院に達する仕組で老幼男女の好奇的趣味を充たすに充分である。

{{#if:『京都日出新聞』昭和5年3月8日夕刊(9日付)p2|
出典:『京都日出新聞』昭和5年3月8日夕刊(9日付)p2
}}

宗教博覧会
開会式を挙ぐ
けふ市公会堂で

岡崎公園勧業館に開催中の宗教大博覧会では十五日午前十時から市公会堂で開会式を挙行したが来会者約千名頗《すこぶ》る盛会で服部会長の式辞に次ぎ同博協賛会総裁山下浄土宗管長代理寺西聴学師の協賛の辞あり、引続き田中文相代理田中府学務部長、土岐市長代理安川助役、大沢商工会議所会頭、並川府会、森田市会両議長等の来賓の祝辞あつた外、参加宗派代表梅谷孝永氏、参加団体代表中野伏見市長、出品者代表八木伊三郎氏の祝辞等あり同博理事長里見市会議員閉会の辞を述べ同十一時卅分滞りなく終了。一同商品陳列館庭園の園遊会に臨み和気靄々《あいあい》裡に随意散会した。

{{#if:『京都日出新聞』昭和5年3月15日夕刊(16日付)p2|
出典:『京都日出新聞』昭和5年3月15日夕刊(16日付)p2
}}

入場者約五十万
予期以上の成績をあげた
宗教博愈よ六日閉会

去る三月八日から蓋を明けた宗教博覧会は、その出品物、参考品等が従来に例のないものだけに非常の人気と好奇心を煽り、開会後は知恩院を始めその他各本山大遠忌も全国からの団参を入場せしめその他奇抜な余興等で終始し、今日迄に約五十万の入場者を見たから先づ殆んど予期の成績を挙げたものといふべく、愈《いよいよ》来る六日を以て終焉を見るが私設の博覧会としては兎に角成功の方であつた。

{{#if:『京都日出新聞』昭和5年5月4日朝刊p3|
出典:『京都日出新聞』昭和5年5月4日朝刊p3
}}

脚注

  1. 平安神宮の南側に隣接している。当時の敷地の範囲と現在の敷地の範囲は同じである。
  2. 大本七十年史 下巻』「宗教と芸術}}|&mka={{#if:|{{{3}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{4}}} }} |-{{#if:|{{{4}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{3}}} }}|#{{#if:|{{{3}}} }} }} #」:「京都を中心とする文化団体の日本歴史会(理事長里見新三郎―京都市議)が主催し、後援には京都市が、協賛には知恩院がそれぞれ名をつらねている」
  3. 『京都日出新聞』昭和5年3月8日朝刊p3
  4. 善導大師は永隆2年(西暦681年)3月14日に亡くなった。年忌は亡くなった年を1年として数えるので1930年は1250年忌となる。
  5. 大本七十年史 下巻』「梅花運動}}|&mka={{#if:|{{{3}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{4}}} }} |-{{#if:|{{{4}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{3}}} }}|#{{#if:|{{{3}}} }} }} #」:「これは宗教博の大本館を模して、さらにそれを拡大美化したものであった」
  6. 『京都日出新聞』の引用文の【凡例】:漢字の旧字体は新字体に改めた。/仮名遣いは旧仮名遣いのまま。/難しい文字は《 》内に読み仮名を入れた。/句読点は適宜追加、修正した。/当時の夕刊は翌日の日付で発行されているが、間違わないように発行した日付に直して記した。例えば8日の夕方に発行された新聞の日付は9日付であり、9日の夕方発行のように勘違いしてしまうため、ここでは「8日夕刊」と記した。/誤字と思われる文字は直して脚注を付けた。
  7. 底本は「一千二百年」。
  8. 底本は「妍義」

関連項目

外部リンク