大本に関する俗説
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大本に関する俗説では、出口王仁三郎を始め大本に関して世間で流布されている俗説・迷信・噂話・虚偽情報などを記す。また、当局やマスコミ、学者らによる誤解・曲解・言いがかりなども記す。
- 王仁三郎は「自分はニセモノ(偽の救世主)だ」と自白している。→「変性女子は偽者」
- 沖野岩三郎『迷信の話』昭和12年(1937年)発行
- 第二次大本事件当時の〈全国にひろがつてゐる信徒は六十万を算するといはれてゐる〉〔121頁〕。----信者はそんなにいない。第二次大本事件勃発の時点で2万人弱である[1]。シンパ層がとても多かった。
- 〈出口なほが予言者となつた第一歩は、隣のおかみさんと口論した末、『そんな根性では、近いうちに、赤いものに見舞はれるぞ。』と言つたのに始るらしい。果して三日目にその隣家は火事になつた〉〔122頁〕。
- 上田喜三郎は〈なほの二番娘、おすみさんと結婚し、『出口なお』の『お』を貰ひ、教祖の二代目といふ意味で「二」を加へ、『おに三郎』とした。だから『わに三郎』でなく、『おに三郎』なのである〉〔122~123頁〕。
- 沖野岩三郎『迷信の話』昭和26年(1951年)発行
- 上田喜三郎は〈なおの二女すみと結婚して、なおの、お、と二女の二と、喜三郎の三郎を合せて、お二三郎と改名し、後に、王仁三郎と書いて、おに三郎と読ませた。わに三郎ではない。それが大本教の二代教祖の夫となつた後、わに三郎と呼び、つひに王仁だけを読んで、ひそかに、きみひと、と呼び、閑院宮を、おやじと云つてゐた。それは彼が閑院宮殿下の落しだねといふ暗示であつたと世間では云つてゐる〉〔210頁〕。----王仁三郎の名前の由来について昭和12年(1937年)版とは少々異なる説が書いてある。また、「閑院宮(かんいんのみや)」の落胤だという噂があるということが書かれているが、この閑院宮とは第6代当主の閑院宮載仁(ことひと)親王(1865~1945年)だと思われる。第5代当主の愛仁(なるひと)親王(1818~1842年)は王仁三郎が生まれる前に亡くなっている。第6代当主の載仁親王は明治4年(1871年)生まれの王仁三郎のわずか6歳年上に過ぎず、それを「おやじ」と呼んでいたとか、「落しだね」だとかいうのは、ただの噂話にしてもあまりにもチープな話である。載仁親王は陸軍参謀総長(昭和6~15年)や貴族院議員(明治23年~)を務めるなど当時の皇族の中で有力者だった。しかしなぜ有栖川宮ではなく閑院宮の落胤と噂されたのかは不明。昭和17年の「女天一坊事件」では犯人(智江)が閑院宮載仁親王の落胤だと偽称していたので、それと混同して噂が広まった可能性もある。<wp>閑院宮</wp>
- 織田作之助(小説家、1913~1947年)が昭和20年(1945年)11月に発表した随筆「終戦前後}}|&mka={{#if:|{{{3}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{4}}} }} |-{{#if:|{{{4}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{3}}} }}|#{{#if:|{{{3}}} }} }} #」
- 〈王仁三郎旦那は、取調べに当った検事に向って、「昭和二十年の八月二十日には、世界に大変動が来る。この変動は日本はじまって以来の大事件になる」と予言して、検事に叱り飛ばされたということである。(略)さすがの王仁三郎も五日間おくれてしまったわけだと、私は思った〉。----予言したことが事実なら情報の出所はその検事ということになるが、そもそも予言で世間を惑わすのがけしからんということで検挙したのだから、仮に取調中にそういう話が出たとしても、検事はそれを外部に漏らすはずがないだろう。王仁三郎は8月20日ではなく「8月15日」が重大な日ということは大正時代からほのめかせていたが公言はしていない。
- 王仁三郎の入蒙の真の目的は、シャンバラ(チベットの地下にあるとされる理想郷)を探すことだった。〔とあるオカルティストの主張〕
- 出口直も王仁三郎も、天理教の本部で修業した。〔某古神道流派継承者の弁〕
脚注
- ↑ 『大本七十年史 下巻』「信仰の護持}}|&mka={{#if:|{{{3}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{4}}} }} |-{{#if:|{{{4}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{3}}} }}|#{{#if:|{{{3}}} }} }} #」:〈大本の場合その信者数は、事件前においてはおよそ二〇万とか三〇万といわれていた。しかし当時の記録によれば、大神奉斎と祖霊の復祭をし、そのうえ教団護持の更始会費を納入していた信者は一万七一六八人にすぎない。これを世帯単位に換算するとさらに少ない数となるのである〉