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* 昭和22年(1947年)5月13日、大本信徒で八雲琴の名手である[[生源寺勇琴]](しょうげんじ ゆうきん)が[[錦之宮]]を訪れた。生源寺が八雲琴を奏しようとしたら、触れていないのに八雲琴が自然に鳴り出した。その音が鳴り止むと王仁三郎の霊姿が現れ(この時はまだ存命中)、それが消えると白く輝く文字が現れた。これが「[[天言鏡]]」と呼ぶ神示の始まりである。 | * 昭和22年(1947年)5月13日、大本信徒で八雲琴の名手である[[生源寺勇琴]](しょうげんじ ゆうきん)が[[錦之宮]]を訪れた。生源寺が八雲琴を奏しようとしたら、触れていないのに八雲琴が自然に鳴り出した。その音が鳴り止むと王仁三郎の霊姿が現れ(この時はまだ存命中)、それが消えると白く輝く文字が現れた。これが「[[天言鏡]]」と呼ぶ神示の始まりである。 | ||
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* 後に[[武智時三郎]](1884~1960年)と、[[岡本天明]](1897~1963年)を菰野に招き、両人とも菰野に移住した。岡本天明は錦之宮の近くに[[至恩郷]] | * 後に[[武智時三郎]](1884~1960年)と、[[岡本天明]](1897~1963年)を菰野に招き、両人とも菰野に移住した。岡本天明は錦之宮の近くに[[至恩郷]]を開いた。(武智が移住したのは昭和21年乃至23年<ref>[[岡本三典]]『[[日月神示はなぜ岡本天明に降りたか]]』p.88によると武智が菰野に移住したのは昭和21年12月8日。『[[言霊の道・先覚者略伝集]]』p.228によると昭和22年。不二「知られざる大本裏神業」p.31によると昭和23年。</ref>)(武智は後に至恩郷を造る荒れ地を開墾していたが、昭和29年9月、病気で倒れ、その後継者として岡本天明が選ばれた。岡本天明は武智の招きで昭和30年8月21日、菰野へ移住した<ref>岡本三典『日月神示はなぜ~』pp.88-92</ref>) | ||
* 昭和27年(1952年)4月、[[泉田瑞顕]](1913~1990年)が辻たちと合流する。泉田は[[三保山]]の山頂に「言霊閣」<ref>名称は綾部に王仁三郎が建造した「[[言霊閣]]」(後に黄金閣に改称)を流用したと思われる。</ref>を造り、同年6月11日から11月8日まで連日、七十五声の言霊を奏上した。<ref>不二「知られざる大本裏神業」pp.32-33</ref> | * 昭和27年(1952年)4月、[[泉田瑞顕]](1913~1990年)が辻たちと合流する。泉田は[[三保山]]の山頂に「言霊閣」<ref>名称は綾部に王仁三郎が建造した「[[言霊閣]]」(後に黄金閣に改称)を流用したと思われる。</ref>を造り、同年6月11日から11月8日まで連日、七十五声の言霊を奏上した。<ref>不二「知られざる大本裏神業」pp.32-33</ref> | ||
* 昭和31年(1956年)6月10日、辻は王仁三郎から下付された「大国常立大神」の御神体を天明居、武智居のある土地に鎮祭する。この時、武智は聖書の「シオン」という地名を取り、この地を「シオンの郷」と命名した。これが「[[至恩郷]]」の発祥である。この祭典に[[小笠原登美子]]が参列していた。登美子は神示により登美古と名乗るようになる。<ref>中矢『大本裏神業の真相』p.210</ref> | * 昭和31年(1956年)6月10日、辻は王仁三郎から下付された「大国常立大神」の御神体を天明居、武智居のある土地に鎮祭する。この時、武智は聖書の「シオン」という地名を取り、この地を「シオンの郷」と命名した。これが「[[至恩郷]]」の発祥である。この祭典に[[小笠原登美子]]が参列していた。登美子は神示により登美古と名乗るようになる。<ref>中矢『大本裏神業の真相』p.210</ref> |
2023年11月9日 (木) 05:14時点における版
辻天水(つじ てんすい、1891~1961年)は、大本信者。亀岡で奉仕者をしていたが、第二次大本事件後、故郷の三重県菰野に帰り、王仁三郎の密命で神業を行った。いわゆる「大本裏神業」の中心人物。本名は辻正道(まさみち)。
略歴
〔この略歴は豊島泰国「"人類不滅"の大予言 龍宮神示と天言鏡」[1]を主な資料として作成した〕
- 明治24年(1891年)6月21日、三重県三重郡菰野村(昭和3年に菰野町となる)で、地主の家に生まれる。父・正憲(まさのり)、母・たね夫婦の長男。
- 第五高等学校(現・熊本大学)を経て、東京帝国大学(現・東京大学)農学部に入学。
- 大正6年(1917年)、伴(ばん)ゆきと結婚。妻の縁故で愛知銀行[2]に就職するが、病気で間もなく退職。実家で療養生活を送る。
- 一時期、菰野村長をしていた。村長在任期間は大正15年(1926年)7月から昭和5年(1930年)7月までの満4年間[3]。
- 大正8年(1919年)頃、大本の「小高」という名の宣伝使[4]から霊界の話を聞かされたのが、大本との最初の縁。
- 昭和5年(1930年)、妻ゆきを伴い、大本の研修会に参加。そこで王仁三郎から「あんたは伊勢のカンノシ(神主)か」と聞かれたので、否定して「伊勢の辻と申す者です」と答えたが、王仁三郎に「お前、伊勢のカンノシになれ」と強く言われたという。このやり取りをそばで見ていた日出麿は補足的に「シンノウジ(神皇子)や」と告げたという。辻はこれをきっかけに大本に入信し、妻子と別居して亀岡に移住し、奉仕者となった。
- その後、全ての所有物は神のものであるという考えに至り、自分の膨大な財産(地所)を全て大本に寄付した。
- 日出麿が辻の実家を訪れた時、辻家の家紋が月と日と十字を組み合わせたもので、大本の裏紋とよく似ていたため、日出麿は驚いたという。(昭和5年11月27日に日出麿が菰野を巡教したという記録が「大本年表」にある)
- その数日後[5]のこと。辻は和歌を詠むときの号として「天如(てんにょ)」と名乗っていたが、日出麿に「天水にしなはれ」と勧められ、天水に改めた。天=日=火とすると、天水とは火水(かみ)を意味する。
- 昭和9年(1934年)1月、娘の多鶴子(たづこ)が病死。妻のゆきは実家に帰った(昭和20年5月に逝去)。同年に日出麿が再び辻家を訪れた。[6]
- 昭和10年(1935年)、辻は大本の奉仕者として、神号を認めたり、辞令を浄書する仕事に従事していた。そこへ王仁三郎が立ち寄った。辻は宣伝使を拝命したいと申し出たが、王仁三郎に「それはあかん」「ここにおれ。お前には重要な使命がある」と言われた。数日後、再び王仁三郎が辻の仕事場やって来た。辻は紙に「大本皇大神」と神号を書くところを、どうしたわけか「大」と「本」の字間を大きく離して書いてしまった。すると王仁三郎は筆をとり、「大」と「本」の間に「日」の字を書き入れ「大日本皇大神」とした。王仁三郎は辻にその書をやると言い「いずれ大事な時に使うことになる」「一厘の仕組をあんたにやってもらう」「わしが捕まったら神業の続きをする者がおらん。そやからわしの代わりに裏の神業をやってくれ」と辻に言った。[7]
- 第二次大本事件以降もしばらくは亀岡を離れず、学校の教員をしながら大本の動向を見守っていた。
- 辻は霊界物語第13巻の信天翁(→「変性女子は偽者」)の「美濃か尾張の国の中」という箇所が、辻の実家がある伊勢のことだと気づいた[8]。また、辻が大本に奉納した地所を王仁三郎が辻に返して「重要なお地場になる」と言っていたことや、日出麿が実家に来訪した時「大事なとこや」と感嘆していたこと、それに王仁三郎・日出麿が言っていた「カンノシ・シンノウジ(神皇子)」とは大本神諭が言う、八王をおさめる一つの王のことだと考え[9]、自分の使命の重大性を認識し、裏神業の道に踏み込んで行った。
- 辻は故郷の菰野に引き籠もり「北伊勢神業」に没頭した。具体的には、審神者として「竜宮神示」「天言鏡《てんげんきょう》」「神言書《しんげんしょ》」などの神示を取り次いだりする神業であった。不明な点があると大阪の刑務所に収監されている王仁三郎に面会を求め、指示を仰いだ。[10] [11]
- 昭和17年(1942年)、辻は保釈出所した王仁三郎と亀岡で面会した。王仁三郎は「この短冊があるところが神業の中心地である」と言って御神体となる短冊を辻に授けた。それは王仁三郎が自ら認めたもので、「大国常立大神」の御神号の下に「金山彦神」「金山姫神」という御神号が書かれていた。王仁三郎はこの御神体を辻に授ける際に「近江で祀り、淡路に渡り、後は伊勢(北伊勢)に入ることになる」と告げたという。辻が近江で御神体を祀った後、再び王仁三郎に指示を仰ぎに行くと「次は淡路島で元井戸を掘るんや」と指示した。この元井戸はすでに白山義高が掘り進めていたが、何も出て来なかった。王仁三郎はこの元井戸が「大国常立大神」が出現する穴だと教えた。 →「淡路島神業」
- 昭和19年(1944年)2月、神示を降ろす霊媒(神主)だった三雲龍三(1914~1945年)が軍に召集された。三雲は翌年1月、上海で戦病死する(享年31歳)。[12]
- 辻は「昭和20年8月15日、夫婦松のあるところに茜大神(注・大国常立大神のこと)を祀り、汝はそこに入るがよい」という神示を与えられており、それを実行するため夫婦松を探した。ついに自宅近くの三保山[13]に樹齢200年の夫婦松を発見し、そこに茜大神を祀る小さな社を建立した。これが「錦之宮」の発祥である。
- 昭和22年(1947年)5月13日、大本信徒で八雲琴の名手である生源寺勇琴(しょうげんじ ゆうきん)が錦之宮を訪れた。生源寺が八雲琴を奏しようとしたら、触れていないのに八雲琴が自然に鳴り出した。その音が鳴り止むと王仁三郎の霊姿が現れ(この時はまだ存命中)、それが消えると白く輝く文字が現れた。これが「天言鏡」と呼ぶ神示の始まりである。
- 同年に辻自身が降ろした神示は「神言書」と呼ぶ。
- 後に武智時三郎(1884~1960年)と、岡本天明(1897~1963年)を菰野に招き、両人とも菰野に移住した。岡本天明は錦之宮の近くに至恩郷を開いた。(武智が移住したのは昭和21年乃至23年[14])(武智は後に至恩郷を造る荒れ地を開墾していたが、昭和29年9月、病気で倒れ、その後継者として岡本天明が選ばれた。岡本天明は武智の招きで昭和30年8月21日、菰野へ移住した[15])
- 昭和27年(1952年)4月、泉田瑞顕(1913~1990年)が辻たちと合流する。泉田は三保山の山頂に「言霊閣」[16]を造り、同年6月11日から11月8日まで連日、七十五声の言霊を奏上した。[17]
- 昭和31年(1956年)6月10日、辻は王仁三郎から下付された「大国常立大神」の御神体を天明居、武智居のある土地に鎮祭する。この時、武智は聖書の「シオン」という地名を取り、この地を「シオンの郷」と命名した。これが「至恩郷」の発祥である。この祭典に小笠原登美子が参列していた。登美子は神示により登美古と名乗るようになる。[18]
- 晩年の辻は、病身ながら、登美古と共に剣山を始めとする四国神業を行った(昭和32年8月5日から9月25日まで[19])。
- 昭和33年10月11日[20]、に辻と登美古は結婚する(辻より34歳年下)。昭和34年、登美古との間に公壽(きみひと)が生まれる。
- 昭和36年(1961年)9月10日、帰幽。享年70歳。
主な参考文献
- 豊島泰国「"人類不滅"の大予言 龍宮神示と天言鏡」、『ムー』平成8年(1996年)2月号掲載
- 中矢伸一『出口王仁三郎 大本裏神業の真相』平成9年(1997年)2月、KKベストセラーズ
- 不二達彦「知られざる大本裏神業「一厘の仕組」の謎」、『ムー』令和3年(2021年)2月号掲載
- 岡本三典『日月神示はなぜ岡本天明に降りたか』平成8年(1996年)12月、徳間書店
- 黒川柚月『岡本天明伝』平成24年(2012年)1月、ヒカルランド
関連用語
脚注
- ↑ 『ムー』平成8年(1996年)2月号掲載
- ↑ 昭和16年に他行と合併して東海銀行になる
- ↑ 中矢『出口王仁三郎 大本裏神業の真相』p.195による。ただし不二「知られざる大本裏神業」p.17には大正15年から昭和3年までと書かれてある。
- ↑ 中矢『大本裏神業の真相』p.196
- ↑ 中矢『大本裏神業の真相』p.199
- ↑ 中矢『大本裏神業の真相』p.199
- ↑ 豊国「龍宮神示と天言鏡」pp.41-42
- ↑ 王仁三郎が第13巻の信天翁を校正したのは昭和10年3月であるが、公刊されたのは戦後であるため、この時点ではまだ辻は「なぞと慢神してござる」云々と校正されたことを知らなかったと思われる。
- ↑ 友清歓真の著書『霊学筌蹄』の中に「此の蒼生を統べ始めて神の本道に復帰せしめむが為め、又神は渾球《こんきゅう》の表に神皇子にも次ぐべき八の王を造らる、王等おのおの其の主宰するところを色別す」とあり、これは大本神諭の「八王も王が世界にあれば、この世に口舌が絶えんから、一つの王でおさめる経綸《しぐみ》がいたしてあるぞよ」という神示に対応する。その一つの王が「カンノシ」であり「シンノウジ」であると辻は考えた。豊国「龍宮神示と天言鏡」pp.47-48
- ↑ 豊国「龍宮神示と天言鏡」p.43
- ↑ 中矢『大本裏神業の真相』p.202
- ↑ 『三雲龍三神示と神一厘の仕組』p.342
- ↑ 辻家が所有する山だった。不二「知られざる大本裏神業」p.17
- ↑ 岡本三典『日月神示はなぜ岡本天明に降りたか』p.88によると武智が菰野に移住したのは昭和21年12月8日。『言霊の道・先覚者略伝集』p.228によると昭和22年。不二「知られざる大本裏神業」p.31によると昭和23年。
- ↑ 岡本三典『日月神示はなぜ~』pp.88-92
- ↑ 名称は綾部に王仁三郎が建造した「言霊閣」(後に黄金閣に改称)を流用したと思われる。
- ↑ 不二「知られざる大本裏神業」pp.32-33
- ↑ 中矢『大本裏神業の真相』p.210
- ↑ 中矢『大本裏神業の真相』p.211
- ↑ 中矢『大本裏神業の真相』p.211
- ↑ 秋山真人「天言鏡に予言された錦之宮の復活」p.72、『ムー』平成12年(2000年)1月号