「出口王仁三郎全集」の版間の差分

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'''出口王仁三郎全集'''(でぐちおにさぶろうぜんしゅう)は、[[出口王仁三郎]]の著作集。全8巻。昭和9年(1934年)から10年にかけて刊行された。[[平凡社]]の[[下中弥三郎]]が企画したもので、[[出口日出麿]]が編集の責任者となった<ref>『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c5423|文書宣伝}}」:「昭和九年五月六日には『出口王仁三郎全集』が東京の万有社から出版された。それは全八巻でB6判一冊六〇〇余頁のものである。時局を反映して再び皇道論がさかんになってきたので、平凡社の下中弥三郎が企画し、日出麿総統補が責任編集の衝にあたった。万有社が実際に発行したのは第四巻までで、その後は天声社が万有社の名義で印刷し発行している。予約による第一回の配本は一万二六〇〇部であった。」</ref>。<ref>第二次大本事件の予審の取り調べの中に「昭和九年一月東京の文士で大本信者の楠田敏郎が亀岡に来て、伊佐男、高木、東尾に対し、『東京の伊藤靖と云ふ者が万有社と云ふ書籍店を開業することゝなつたから、王仁三郎全集を万有社から発行させて貰ひたい、同全集を大本以外の普通の書籍店から発行して居ると云ふことは大本の宣伝上にも好都合であると思ふ故、是非発行させて呉れ』と言ひました」「同全集は第四巻迄は万有社より発行しましたが、同社は経営困難となつた為、昭和九年九月頃瑞声閣に於て伊佐男、高木、岩田、東尾が協議の上、第五巻以下は天声社に於て発行することとし、其の後第五巻乃至第八巻を発行しました。同全集は、第一巻は五、六千部売れ、第二巻乃至第四巻は四、五千部売れ、第五巻乃至第八巻は約三千部売れました。」と書いてあるが、事実かどうかは定かではない。『[[大本史料集成]] Ⅲ』{{obc|B195503c220210|地裁公判速記録}}</ref>
'''出口王仁三郎全集'''(でぐちおにさぶろうぜんしゅう)は、[[出口王仁三郎]]の著作集。全8巻。昭和9年(1934年)から10年にかけて刊行された。[[平凡社]]の[[下中弥三郎]]が企画したもので、[[出口日出麿]]が編集の責任者となった<ref>『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c5423|文書宣伝}}」:「昭和九年五月六日には『出口王仁三郎全集』が東京の[[万有社]]から出版された。それは全八巻でB6判一冊六〇〇余頁のものである。時局を反映して再び皇道論がさかんになってきたので、[[平凡社]]の[[下中弥三郎]]が企画し、[[日出麿]]総統補が責任編集の衝にあたった。万有社が実際に発行したのは第四巻までで、その後は天声社が万有社の名義で印刷し発行している。予約による第一回の配本は一万二六〇〇部であった。」</ref>。<ref>第二次大本事件の予審の取り調べの中に「昭和九年一月東京の文士で大本信者の[[楠田敏郎]]が亀岡に来て、伊佐男、高木、東尾に対し、『東京の伊藤靖と云ふ者が万有社と云ふ書籍店を開業することゝなつたから、王仁三郎全集を万有社から発行させて貰ひたい、同全集を大本以外の普通の書籍店から発行して居ると云ふことは大本の宣伝上にも好都合であると思ふ故、是非発行させて呉れ』と言ひました」「同全集は第四巻迄は万有社より発行しましたが、同社は経営困難となつた為、昭和九年九月頃瑞声閣に於て伊佐男、高木、岩田、東尾が協議の上、第五巻以下は天声社に於て発行することとし、其の後第五巻乃至第八巻を発行しました。同全集は、第一巻は五、六千部売れ、第二巻乃至第四巻は四、五千部売れ、第五巻乃至第八巻は約三千部売れました。」と書いてあるが、事実かどうかは定かではない。『[[大本史料集成]] Ⅲ』{{obc|B195503c220210|地裁公判速記録}}</ref>


発行所は第1~4巻は「合資会社[[万有社]]」<ref>万有社の住所は平凡社と同じ(東京市日本橋区呉服橋3-5)なので、実質的に平凡社が業務を行っていたか?</ref>で、第5~8巻は[[天声社]]である。
発行所は第1~4巻は「合資会社[[万有社]]」<ref>万有社の住所は平凡社と同じ(東京市日本橋区呉服橋3-5)なので、実質的に平凡社が業務を行っていたか?</ref>で、第5~8巻は[[天声社]]である。


各巻の概要・目次は各巻のページを見よ。
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! 巻 !! 発行日 !! 頁数 !! OBN
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2022年3月17日 (木) 06:04時点における版

出口王仁三郎全集(でぐちおにさぶろうぜんしゅう)は、出口王仁三郎の著作集。全8巻。昭和9年(1934年)から10年にかけて刊行された。平凡社下中弥三郎が企画したもので、出口日出麿が編集の責任者となった[1][2]

発行所は第1~4巻は「合資会社万有社[3]で、第5~8巻は天声社である。

各巻の概要・目次は各巻の項目を見よ。

発行日 頁数 OBN
第一巻 皇道編 昭和9年6月3日 652 OBN:121801
第二巻 宗教・教育編 昭和9年10月15日 638 OBN:121802
第三巻 霊界物語(上) 昭和9年7月17日 630 OBN:121803
第四巻 霊界物語(下) 昭和9年9月17日 650 OBN:121804
第五巻 言霊解・其他 昭和10年6月30日 680 OBN:121805
第六巻 入蒙記・其他 昭和10年4月30日 628 OBN:121806
第七巻 歌集 昭和10年8月30日 671 OBN:121807
第八巻 我が半生の記 昭和10年10月25日 610 OBN:121808

復刻版

平成10年(1998年)にあいぜん出版天声社から復刻版が刊行された。

あいぜん出版の復刻版

平成10年(1998年)6月から10月にかけて刊行。ソフトカバー。(OBN:OBN:1444

天声社の復刻版

平成10年(1998年)7月から翌11年3月にかけて刊行。ハードカバー、函入。(OBN:OBN:1446

差別用語等に関して削除されている文字がある。

脚注

  1. 大本七十年史 下巻』「文書宣伝}}|&mka={{#if:|{{{3}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{4}}} }} |-{{#if:|{{{4}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{3}}} }}|#{{#if:|{{{3}}} }} }} #」:「昭和九年五月六日には『出口王仁三郎全集』が東京の万有社から出版された。それは全八巻でB6判一冊六〇〇余頁のものである。時局を反映して再び皇道論がさかんになってきたので、平凡社下中弥三郎が企画し、日出麿総統補が責任編集の衝にあたった。万有社が実際に発行したのは第四巻までで、その後は天声社が万有社の名義で印刷し発行している。予約による第一回の配本は一万二六〇〇部であった。」
  2. 第二次大本事件の予審の取り調べの中に「昭和九年一月東京の文士で大本信者の楠田敏郎が亀岡に来て、伊佐男、高木、東尾に対し、『東京の伊藤靖と云ふ者が万有社と云ふ書籍店を開業することゝなつたから、王仁三郎全集を万有社から発行させて貰ひたい、同全集を大本以外の普通の書籍店から発行して居ると云ふことは大本の宣伝上にも好都合であると思ふ故、是非発行させて呉れ』と言ひました」「同全集は第四巻迄は万有社より発行しましたが、同社は経営困難となつた為、昭和九年九月頃瑞声閣に於て伊佐男、高木、岩田、東尾が協議の上、第五巻以下は天声社に於て発行することとし、其の後第五巻乃至第八巻を発行しました。同全集は、第一巻は五、六千部売れ、第二巻乃至第四巻は四、五千部売れ、第五巻乃至第八巻は約三千部売れました。」と書いてあるが、事実かどうかは定かではない。『大本史料集成 Ⅲ』地裁公判速記録}}|&mka={{#if:|{{{3}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{4}}} }} |-{{#if:|{{{4}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{3}}} }}|#{{#if:|{{{3}}} }} }} #
  3. 万有社の住所は平凡社と同じ(東京市日本橋区呉服橋3-5)なので、実質的に平凡社が業務を行っていたか?