長生殿 (旧)
この項目では、昭和3年に造営が開始された長生殿について説明しています。その他の用法については「長生殿 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
長生殿(ちょうせいでん)は、綾部の神苑にあった神殿。本宮山(別名:鶴山)の山頂に造られ、土台が十字形の独特な形をしていた。天の御三体の大神が鎮祭される至聖所になるはずだったが、完成せずに第二次大本事件を迎えた。第二次大戦後、跡地に「月山富士」が築かれた。
造営
昭和10年(1935年)8月9日夜、綾部の五六七殿において開かれた「主会長本部長会議」での席上、王仁三郎は長生殿の建設について次のように訓示している。
今迄色々な狂潤怒涛を乗り越えて来ましたこの皇道大本に肝心のもう一つ遅れて居る事があるのであります。これは何かと云へば祭政一致である、皇道を天下に宣布発揚せんとせば、どうしても大神様の神霊の奉安所を建てて、神様に奉る必要が迫つて居るのであります。この祭政一致の精神によつて、大正九年から十年にかけて、鶴山山上に荘厳なる神殿を拵へましたが御存じの様な次第で、あれは壊されて了つたのであります。けれどもその後信徒諸氏の信仰心は益々強烈になつて来たのであります。さうしてどうしても壊されたる宮の跡に於いて慨(なげ)く事を止めて、再び再建する曙光に向つたのであります。故に本年の十月廿七日の記念日(注・大正10年(1921年)10月27日に本宮山神殿の取り壊しが完了した)に斧始式を執行したいと思ひます。そして先づ天地の大神様を奉斎し、それから皇道を中外に向つて宣揚したいと思ひます。今日も中外に向つて宣揚して居りますが、肝心の不言実行といふ点に於いて、神様の奉安所が出来てゐない事は、実に吾々として遺憾の至りであります。故に祭政一致の国家の精神によつて、先づ皇道大本としてはこの神殿の造営が必要と思ひます。
この神殿造営が逼(せま)つて来た事は何故かと云ふのに、亀岡は昔から花明山(亀山)というて居りました。あそこには月宮殿が出来て居ります。この鶴山には長生殿が建つといふ事になつて居ります。これは鶴亀と云ふ謡(うたひ)がありますが、古人がこの将に来たらんとする世の事を諷してあれは作つたものであります。吾々には言霊解で解釈すれば今度の事だといふ事が、すつかり判つて来ます。さうすると大神様の御催足といふものが、亀岡天恩郷に於て私が東京から帰つた晩から三羽の鶴が毎晩出て来て公孫樹にとまつて居ります。又一尺余の石亀(いしがめ)が這(はい)込んで来たのであります。これは、どうしても鶴山と亀山が一致せねばいけないといふ神様の、私は示しと感じまして、どうしても早くこの神殿の造営が必要だと思ふのであります。長生殿は本宮山神殿に代わる新たな神殿ということになる。しかし破壊された本宮山神殿は形状が神様の指示とは異なっていたというので、長生殿こそが真の本宮山神殿、と言える。
同年10月27日に斧始式が行われ、建設が始まった。翌28日の大本大祭は、長生殿敷地内で、王仁三郎が斎主となって執行された。従来は綾部・五六七殿と亀岡・大祥殿で行われていた大祭が、この年から長生殿と万祥殿で行われることとなった。[1]
王仁三郎は「長生殿建ち上(あが)りたるあかつきは神の経綸(しぐみ)も漸(やうや)く成らむ」「花明山(かめやま)に万祥殿の建つ時はわが大本の道輝かむ」[2]と歌を詠み両神殿の完成を待望していたが、しかしどちらも基礎だけで未完成のまま第二次大本事件を迎えた。
略年表
- 昭和3年(1928年)1月18日、地搗き。
- 同年11月10日、本宮山神殿跡を参拝した王仁三郎は、ここに再び神殿を建てることを宣言する。[3]
- 同年11月13日、地鎮祭。
- 昭和4年(1929年)2月3日、地搗き。
- 同年2月25日、地搗き。4月5日、地搗き。5月5日、地搗き。
- 昭和6年(1931年)5月10日、基礎工事(十字形の基礎)に着手。
- 同年8月22日、基礎工事完成。
- 昭和7年(1932年)10月31日、鶴山(本宮山)山上で昭和青年会全国支部旗樹立式。王仁三郎は長生殿の礎石上で謁見、訓示を行う。
- 昭和8年(1933年)8月4日、鶴山山上で聖師聖誕祭。王仁三郎は長生殿の石垣上に立ち訓示を行う。
- 昭和10年(1935年)10月27日、大本大祭。長生殿斧始式。
- 同年10月28日、長生殿祭。従来は至聖殿で行われていたが、長生殿敷地で挙行された。
- 昭和11年(1936年)5月、第二次大本事件で長生殿の礎石は破壊される。
- 昭和21年(1946年)6月、跡地に「月山富士」が造られた。→「月山富士」を見よ
〔この項は特記ある場合を除き『大本年表』をもとに作成した〕
名称の由来
長生殿という名称の由来について王仁三郎は「神社法といふ規則がありまして、神社と云ふことは出来ない又宮殿と云ふことも出来ないので、これは昔の謡のものによりまして、長生殿と云ふのであります。長生殿の建築であります」と述べている[4]。「昔の謡」というのは今様の長生殿、或いは中国清代の戯曲の長生殿を指すものと思われる。
十字形の理由
→「月宮殿#十字形の理由」を見よ
最奥天国の長生殿
王仁三郎は二回目の高熊山修行の際、国常立の神と稚姫君命に導かれ、最奥天国の黄金山に登り、「十字の宮」に入った。そしてこの宮を地上に写せと命じられた。その時の様子を次のように歌に詠んでいる。[5]
十字形の珍の宮居は鶴山の長生殿よと神は宣らせり
一つ一つわれいぶかりつ喜びつ襟をただして宣言(のりごと)を聞く
この宮をやがて地上にうつすべし汝(なれ)に授くといかめしき御声
豊葦原全地の上に神の国築くべきとき来りしと宣り給ふ
汝(なれ)こそは瑞の御霊の神柱地上の光よ花よと宣らせり
長生殿にかざせる真澄の神鏡(みかがみ)に写る姿にわれおどろきぬ
何時の間にかわれは女体となりて居り頭に輝く宝珠の光
音楽のこゑ嚠喨とひびかせつ神人(しんじん)たちて御庭(みには)にをどらす
二はしら神はしづしつ長生殿の御扉(みとびら)深くかくれたまへり脚注
外部リンク
- <wp>長生殿 (戯曲)</wp>:清の洪昇(こうしょう)が作った戯曲で、唐の玄宗と楊貴妃の物語を戯曲化したもの。
- <wp>長生殿</wp>