冠島開き沓島開き

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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冠島開き沓島開き(おしまびらき めしまびらき)とは、明治33年(1900年)7・8月に行われた御神業。

沓島には国祖国常立尊が、冠島にはその眷族(部下の神々)が退隠していたが、それらの神々を表に出すための神業であった。

冠島開き

明治33年(1900年)旧6月、「こんど二どめの世の立替えについて、冠島に参りてくだされよ」という神示が出口直に降りた。冠島とはどういう島なのか知らなかったが、信者に調べさせると、舞鶴沖にある無人島だということが分かった。

7月4日(旧6月8日)、出口直王仁三郎澄子四方平蔵木下慶太郎の一行5人で綾部を発つ。午後5時頃、舞鶴の「大丹生屋(おおにゅうや)」という舟宿に到着した。

冠島へ渡る舟を頼んだが、夕方から降り出した雨が激しくなり荒れて来たため、舟を出してくれる舟頭が一人もいない。直は「竜宮様がお迎えに見えるので少し荒れておるが、博奕ケ崎まで行けば雨も風も止むと神様が申されるから、舟を出して欲しい」と言う。途中から引き返すことになっても、冠島までの賃金は支払うからと強いて頼むと、二人の漁師(田中岩吉、橋本六蔵)が舟を出してくれることになった。

夜10時頃、舟を漕ぎ出し、博奕ケ崎まで来ると、直が言った通り雨風が止んで星空となった。

7月5日の朝日が昇る頃に冠島に着いた。一同は波打ち際で禊をして老人島神社の社殿で祝詞を奏上し、祈願をして御用を済ました。

沓島開き

冠島開きから一ヵ月後、「こんどは沓島も開いて下されよ」との神示があった。「世に落ちておりた生き神を今度世にあげる」ためだという。

8月2日(旧7月8日)、出口直王仁三郎澄子四方平蔵福島寅之助木下慶太郎福林安之助四方祐助中村竹蔵の一行9人で綾部を出発。大丹生屋で舟を雇い、沓島に向かった。当日はここ数年にない静穏な海であった。

途中、海上で、魚釣りをしていた舟から神饌にするための鯖を買い、翌3日朝8時過ぎに冠島に到着した。

社前で禊祓の祝詞を奏上。そして木下、福林、四方祐助、中村の4人を冠島に残して境内の掃除を命じ、直ら5人で沓島に渡った。

舟が沓島に近づくと波が大きくうねり、漕ぎ寄せる場所がなかった。直は釣鐘岩に舟を着けよと命じた。漕ぎ寄せると王仁三郎は真っ先に上陸して舟を縄で結びつけた。

神祠を解体し柱を一本ずつ引き上げ、30メートルほどの高所にある二畳あまりの平岩を鎮座所として祠を建てた。国常立尊竜宮の乙姫を始め、長い年月、陰から守護して来た神々を奉斎し、鎮座祭を執行した。

帰路は島を一周し、冠島へ立ち寄った。夕方、舞鶴に着き、4日帰綾した。

参考文献

『大本七十年史 上巻』「冠島開き・沓島開き}}|&mka={{#if:|{{{3}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{4}}} }} |-{{#if:|{{{4}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{3}}} }}|#{{#if:|{{{3}}} }} }} #

呼び方

神業が行われた時間的な順序では「冠島開き沓島開き」であるが、逆の順序で「沓島開き冠島開き」と呼ばれる場合もある。国祖の神霊が隠退していた沓島の方が重要であるため、沓島開きを先にしていると思われる。