聖師
聖師(せいし)とは、
(1) 出口王仁三郎に対する尊称。それまでは「大先生」と呼ばれていたが、大正14年(1925年)6月の終わり頃から「聖師様」と呼ばれるようになった。王仁三郎の指示による呼称ではなく、信徒が自発的に使い出した呼称である。
(2) 霊界物語第64巻上下で、次の4人が「聖師」と呼ばれている。[1]
- アメリカン・コロニーの執事・スバッフォード …初出:第64巻上第1章「橄欖山」#
- ルートバハーの宣伝使・ブラバーサ …初出:第64巻上第3章「聖地夜」#
- バハイ教の宣伝使・バハーウラー …初出:第64巻上第18章「新聞種」#
- ルートバハーの教主・ウズンバラ・チャンダー …初出:第64巻下第1章「復活祭」#
本項では(1)について解説する。
大国美都雄『真偽二道』によると、大正14年(1925年)6月、加藤明子ら側近たちの発案により、王仁三郎を「聖師様」と呼ぶことになった。
大正十四年六月の終り、大先生の側に奉仕していた加藤さんやその他の人々の四方山の話が発展し、大先生 大先生というのはおかしいではないか、武道の方でも大先生という呼称があるし、宗教者の大先生というのはふさわしくない。なんとかよい呼称はないだろうかという話になり、あれこれを詮索の末、霊界物語に聖師という言葉があるから[2]、聖師というのはどうだろうかということになった。そこで翌日、そのことを大先生にもち出し、それから皆で聖師と呼ぶことにした。
ところが数日たって、聖師 聖師と呼ぶのでは何か呼び捨てにしたような物足りない気がする、と加藤さんがいいだして、皆も同調し、それならどうするかと議論が行われて、聖師様と様をつけるということになった。以都雄は「敬語の上にまた敬語をつけるのか」といって議論していると、大先生がひょっこりとそこへ来られて、「聖師でええ」と自らもおっしゃった。だが、加藤さん達は、「それでは治まりがつかない」といっていつの間にか聖師様ということになった。
- 大本年表の大正14年6月30日の項に「聖師を瑞霊真如聖師と称える」と記されている。
- 『大本七十年史』には次のように記されている。「六月三〇日には、大本および大本瑞祥会の第二次規約改正をおこなった。それによって、これまで教主輔ならびに大本総裁であった出口王仁三郎は、たんなる一教団大本の王仁三郎でなく、神命により「瑞霊真如聖師」として自由に世界的に活動することとなり、これ以後王仁三郎を「聖師」とよぶことになった」。[3]
- 入蒙記第4章「微燈の影」#では、大正13年(1924年)2月9日(旧正月5日)に隆光彦(北村隆光)や唐国別(矢野祐太郎)が日出雄(王仁三郎)に対して「聖師」(聖師様)と呼んでいる。しかしこの時点ではまだ聖師という尊称で呼んでいるはずがない。霊界物語入蒙記は『出口王仁三郎全集 第六巻』収録の「入蒙記」を原本にしており、この第4章「微燈の影」は大正14年8月15日(「聖師」呼称開始後)に口述されたものである。その前身である『王仁蒙古入記』は大正14年2月12日発行(「聖師」呼称開始前)で、該当箇所(「二 縦談横説」)は「聖師」ではなく「先生」になっている。「入蒙記」として新たに口述した際に、「先生」を「聖師」に改めたようである。