久兵衛池

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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現在の久兵衛池。平成31年(2019年)4月撮影。

久兵衛池(きゅうべえいけ)は、上田喜三郎(王仁三郎)の生家の西南隅にあった潅漑用の池。現在も瑞泉苑の中に残っている。

上田久兵衛(喜三郎の五代前の先祖で、藤原から上田に姓を変えた初代)の代に掘ったので久兵衛池と呼ばれるようになった。

久兵衛池事件

この池は敷地の坤の方位に掘ったため、裏鬼門の祟りで、上田家の女が七人、溺れて死んだ。上田家以外も溺死した村人が何人もいる。喜三郎自身も明治10年(1877年)の夏、7歳の時に池に落ち溺れそうになったところを祖母・宇能に助けられた。弟・幸吉も明治20年に溺死しそうになった。そのため父・吉松は、この池を埋めてしまおうと決心した。上田久兵衛の時代には所有地が1万5千坪もあったが、祖父の代に零落し、父の代には183坪の宅地と31坪の田しか無かったため、久兵衛池の必要が無くなっていたのである。

そこへ寺西文助という者が来て、この池は村の池だからと上田家の自由にしてはいけないと反対した。吉松は怒って、わが所有地にある池だと跳ね付けた。すると文助は十人ばかりと同盟し、吉松を脅迫しようと、村会議員や地主などに運動して、吉松の無学と貧乏に付け込んで攻撃を始めた。

当時喜三郎は、上田家の南隣の斎藤源治という大地主の家に、15歳の冬から丁稚奉公していた。喜三郎は斎藤家に村の大地主や議員、反対者が鳩首して吉松を攻撃する協議をしているのを隣室で聞いて憤った。小作地を取り上げたり、借金を取り立てたり、喜三郎をクビにしたりして吉松を困らせてやろうというのである。主人の源治がやって来て、喜三郎の方から吉松を説得してくれと頼む。喜三郎は断然反対の態度を取り、実家に帰った。すると父母が声を挙げて泣いている。村人たちがすでに「田を返せ、金を返せ」と迫ったのだった。喜三郎は「神の佑助を仰いで正邪を明らかにします」と父母を慰め、亀岡の伯母の家に向かった。事情を聞いた伯父や伯母も激昂し、万一の時には引き受けると、声援を送った。喜三郎は百万の援兵を得た気持ちで帰宅した。

翌日、久兵衛池の件で村中の総集会が開かれ、喜三郎は父の代理として出席すると、120余戸の戸主が残らず集まっていた。敵ばかりの中、喜三郎は一言も淀みなく正義を以て立て通したので、彼らもついに適し難しを知り、上田家に年々報酬を出すので池を貸してくれないか、ということになり、喜三郎は毎年玄米一斗五升で貸すことにし、契約書を取って一件落着となった。

「余はここにおいて、神力の高きを覚ると共に、ますます下等貧賤の人民の境遇の惨澹たる生活を知り、ますます救世的の大決心を定めたのである」と王仁三郎は述べている。

〔この項は『本教創世記第一章}}|&mka={{#if:|{{{3}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{4}}} }} |-{{#if:|{{{4}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{3}}} }}|#{{#if:|{{{3}}} }} }} #をもとに作成した〕

久兵衛池の整備

昭和8年(1933年)夏、久兵衛池の周囲に石垣をめぐらし、従来の6倍の広さに池を拡大した。そして11月2日に玉水殿の斧始式を行い、このときから穴太の玉の井(久兵衛池)の名称を「瑞泉苑」と呼ぶことになった。〔『大本七十年史 下巻』「神苑の造営と祭事}}|&mka={{#if:|{{{3}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{4}}} }} |-{{#if:|{{{4}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{3}}} }}|#{{#if:|{{{3}}} }} }} #」〕