トーク:明星記

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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明星記』の著者・高須令三と、高須クリニック院長の高須克弥は、どちらも愛知県西尾市の出身の医師であり、医院の場所も極めて近いところにあるが、特に親戚関係にはないようである。両者が主張する一族の伝承はまるで異なる。

続・明星記』pp.13-14によると、高須令三の先祖は白鷺城(姫路城)に由縁がある武士で、南北朝の戦い(14世紀)で敗れて、紀州から海路、岐阜に逃れ、居城を築いて鷹巣城と命名した(現・岐阜県海津市高須町の高須城跡)。しかし追われて三河に逃れ、現・西尾市一色町赤羽(ここは高須克弥の出身地である)に砦を築いて居城とし、世を忍ぶため姓を一色に改めた。これが一色町の発祥と言われている。1500年頃に赤羽から中畑(現・西尾市中畑町)に転住した。高須令三はこの中畑で生まれた。医師になった後、現・西尾市一色町味浜に医院を開いた(高須皮膚科)。高須克弥の高須病院とは500mほどしか離れていない。

高須克彌記念財団サイト内の「高須家のなりたち」によると、高須克弥の先祖は現・一色町に住んでいた。本能寺の変で徳川家康が明智光秀の襲撃から逃れ岡崎城に帰るため三河湾を船で渡り一色に上陸した(伊賀越え)[1]。高須家の祖となる小四郎は、負傷していた家康を介抱し命を救った。家康は感謝の意として、小四郎に庄屋の地位と「高須」という苗字、家紋を与えた。以後、高須家は代々医業を生業にしている。高須克弥の祖母が一色町赤羽に高須医院(現・高須病院)を開いた。

このように両高須家に伝わるルーツの伝承は全く異なる。いずれも歴史的に確認されていることではないが、家の伝承が異なるということは、親戚ではないということである。

脚注

  1. 上陸地点については諸説ある。