ハルピン丸
[[{{#switch:nm |64a=第64巻上 |64b=第64巻下 |nm=入蒙記 |第nm巻 }}第35章]]{{#if:|「[[]]」}}{{#if:|頁}}{{#if:|/ }}{{#if:|- }}}}{{#switch:z35|z1|z2|z3|z4|z5|z6|z7|z8|z9=035|#default=35 }}{{#if:{{#if:| }}|&mka={{#if:| }} }}{{#if:{{#if: | }} |-{{#if: | }} }}{{#if:{{#if:| }}|#{{#if:| }} }} #に1回だけ出る。
|64a=第64巻上 |64b=第64巻下 |nm=入蒙記 |第nm巻
}}第35章]]{{#if:黄泉帰|「黄泉帰」}}{{#if:|頁}}{{#if:|/ }}{{#if:|- }}}}{{#switch:z35|z1|z2|z3|z4|z5|z6|z7|z8|z9=035|#default=35 }}{{#if:{{#if:| }}|&mka={{#if:| }} }}{{#if:{{#if: | }} |-{{#if: | }} }}{{#if:{{#if:| }}|#{{#if:| }} }} # ||64a=第64巻上 |64b=第64巻下 |nm=入蒙記 |第nm巻
}}第35章]]{{#if:黄泉帰|「黄泉帰」}}{{#if:|頁}}{{#if:|/ }}{{#if:|- }}}}{{#switch:z35|z1|z2|z3|z4|z5|z6|z7|z8|z9=035|#default=35 }}{{#if:{{#if:| }}|&mka={{#if:| }} }}{{#if:{{#if: | }} |-{{#if: | }} }}{{#if:{{#if:| }}|#{{#if:| }} }} #奉天の日本総領事館に収容されていた源日出雄(出口王仁三郎)は、大正13年(1924年)7月21日(月曜)護送され中国の大連に到着。ハルピン丸に乗り、7月25日(金曜)午前、日本の門司に着いた。
入蒙記には書いてないが、実際にハルピン丸に乗ったのは7月22日(火曜)のようである。[1]
本来は三日後の7月24日(木曜)に到着予定のはずだが(下記参照)、実際には25日(金曜)に到着している。理由は不明。
はるぴん丸
入蒙記のハルピン丸は大阪商船が運航する船で、正式には片仮名ではなく平仮名表記の「はるぴん丸」である。
総トン数5169トン。この当時、大阪大連線は「はるぴん丸」「ばいかる丸」「あめりか丸」「香港丸」の4隻を使い週2回、大阪と大連を往復しており、途中、神戸と門司に寄港していた。[2]
大連を初日の午前に出港し、三日目の午前に門司に入港した。(ちなみに大連~門司間は614海里=1137kmある[3])
大正13年頃の発着スケジュールは、大連から毎週火曜と土曜の午前10時[4]に出港し、門司には木曜・月曜の午前9時[5] [6]に入港していた。(昭和4年(1929年)4月11日から船が1隻(うらる丸)増え5隻運航となり、週2回ではなく、三日ごとに出港するスケジュールに変わった[7])
脚注
- ↑ 「大本年表」に7月22日の項に「聖師、大連からハルピン丸にて出帆」と記されている。
- ↑ 国立国会図書館デジタルコレクション蔵書『}} 関東庁要覧』{{#if:|(コマ目)}} PID:978498/217(大正14年(1925年)4月、関東長官官房文書課発行)p384
- ↑ 国立国会図書館デジタルコレクション蔵書『}} 大連港』{{#if:|(コマ目)}} PID:3464623/14(大正2年(1913年)発行)p6
- ↑ 国立国会図書館デジタルコレクション蔵書『}} 海 春之巻』{{#if:|(コマ目)}} PID:1557388/18(大正15年(1926年)4月、大阪商船発行)p31に「大連よりは毎週火曜、土曜日午前十時出帆」とある。
- ↑ 『海 第拾九号』p9に「復航門司着は従来大抵午前九時でありましたが」とある。
- ↑ 国立国会図書館デジタルコレクション蔵書『}} 鮮満北支感興ところどころ』{{#if:|(コマ目)}} PID:971954/85(大正12年(1923年)4月発行)p150によると、大正11年(1922年)10月17日(火曜)の午前10時出帆予定で(しかし積荷が遅れたため正午に出帆)、19日(木曜)午後1時半に門司に着いている。
- ↑ 国立国会図書館デジタルコレクション蔵書『}} 海 第拾九号』{{#if:|(コマ目)}} PID:1557392/5(昭和4年(1929年)5月、大阪商船発行)p5,p10