頭槌・石槌
頭槌(くぶつち)と石槌(いしつち)は、古代の武器、あるいは打つための道具。「槌」ではなく「椎」を使い「頭椎」「石椎」と書く場合もある。霊界物語では「頭槌(くぶつち)」または「頚槌(くぶつち)」と呼ばれるものが登場する。「石槌」は登場しない。
一般的意味
頭槌は、手に持つ柄の頭部が槌のように丸く脹らんでいる太刀である。「くぶつち」「かぶつち」「くぶつつ」「くぶつつい」[1]等と呼ばれる。古事記や日本書紀の原文では「久夫都都(くぶつつ)[2]」「箇歩豆智(かぶつち)」「勾夫菟智(くぶつち)[3]」等と表記されている。
石槌は、穀物などを叩いたり潰したりするための石器。「いしつち」「いしづち」「いしつつ」等と呼ばれる。古事記では「伊斯都都(いしつつ)[2]」と表記されている。
- <kb>頭槌</kb>
- <kb>石槌・石鎚</kb>
王仁三郎の教示
月鏡「頭槌石槌」[4]によると、昭和5年(1930年)の宗教博の際、白出柳助なる人物が王仁三郎のもとに一個の石器を持ち込んだ。王仁三郎はこれは「頭槌(くぶつつい)石槌(いしつつい)」であり、太古に「帝王又は神柱が佩(お)びて居たもの[5]」で、「武器ともなり又は病気などを癒す道具として使用したもの」だと説明している。
形状は「裁ち物包丁に似て長さ一尺余(注・約30cm)、茶褐色の滑かな石質、上部は平面にして側面に溝あり、溝のつくる所に一個のイボの如きものあり下部は筒形をして居る」。
武器としての使い方は「イボをもつて敵の眉間を打つて倒した」。病気治しの道具としては「上部の扁平なる部分は熱灰(あつばい)につけて熱し、其溝(みぞ)のところをちりげ[6]より脊柱に添うてあてて病気を癒すので、たとへば灸点の如き働きをなすのである」と述べている。
また、「霊界物語を口述してゐる際、霊眼に映ずる昔の主なる宣伝使は腰に之をさして居るので、それに擬して私も宣伝使達に御手代を渡しておいた」と教えている。つまり頭槌・石槌は御手代の原型ということになる。しかし霊界物語で、宣伝使がそのようなものを腰にさしているという描写は見当たらない。
霊界物語には「頭槌(くぶつち)」または「頚槌(くぶつち)」というものが、次の7つの章に登場する。
- 第1巻第50章「死海の出現」#
- 第2巻第7章「天地の合せ鏡」#
- 第2巻第25章「蒲団の隧道」#
- 第5巻第26章「艮坤の二霊」#・第27章「唖の対面」#:この2章だけは「頚槌」。
- 第10巻第35章「アルタイ窟」#
- 第11巻第28章「二夫婦」#
最初の第1巻第50章「死海の出現」#では、神軍と魔軍との戦いにおいて、天上から天明彦命が地上の大八洲彦命に金色の「頭槌の玉」を3個を与えている。「玉」と呼ばれているので、刀や槌のような形ではなく、丸い玉のようである。次の引用文から分かるように、爆発して敵を倒す武器として機能している。
「この時、大八洲彦命は天明彦命より賜はりし頭槌の玉を一つ取りだし、竹熊の魔軍にむかつて空中高く投げ打ちたまへば、その玉は爆発して数万の黄竜(わうりゆう)となり、竹熊に前後左右より迫つた」
「木常姫の魔軍に対して、大八洲彦命は第二の頭槌の玉を空中に投げ捨てたまへば、たちまち爆裂し、木常姫の一軍は神威におそれ狼狽の極、死海の周囲に屹立せる禿山(はげやま)の山上に墜落し、岬角(こうかく)に傷つき、最後を遂げた」
それ以外の6つの章では、何かを(敵や、杭など)叩いているので、玉ではなく、刀や槌のような形状をしているのだと思われる。
『新月の光』には、信州で拾った石器を昭和17年10月、王仁三郎に見せると、これは頭槌・石槌である、穴太は昔の古戦場なのであちこちに沢山落ちていると教示したことが記されている。この石器は昭和22年に王仁三郎に献納された。[7]