竜門館
出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
概要
筆先に「竜門館」という言葉は、明治31年から出ており、そこが世界の中心地点、大本の活動の中心地点となることが予告されていた。
綾部へ諸国の神、守護神を集めて、それぞれの御用を申付ける、尊い世の根の世の本の、竜門館の高天原であるから、何を致しても綾部の大本の許しの無き事は、九分九厘で転覆るぞよ。(略)大将を綾部の高天原の竜門館に、○○さんならん事が出て来るぞよ。
(注・半紙に筆先が書かれるようになったのは明治26年以降であり、この明治25年の大本神諭は後年、王仁三郎が編纂したものである。であるから実際に明治25年から出口直が「竜門館」という言葉を発していたかどうかは定かではない)
(注・半紙に筆先が書かれるようになったのは明治26年以降であり、この明治25年の大本神諭は後年、王仁三郎が編纂したものである。であるから実際に明治25年から出口直が「竜門館」という言葉を発していたかどうかは定かではない)
出口直殿の邸が、元素の竜宮館で在るから、元源の館へ立ち帰る世に成りたぞよ。竜宮館が宮屋敷と相定まりて、昔から無い結構が出来るから、今に世界は動く事が在るぞよ。
明治32年(1899年)12月1日、大島景僕の土地家屋を、出口清吉の年金一時賜金を使って買い受ける。一時他に貸していたが、明治33年11月1日、拠点を本宮東四辻(元・金光教会)からそこに移し、二階の八畳間[1]を広前とした。このとき初めて「竜宮の乙姫」も一緒に奉斎した。[2]
この家が筆先によって「竜門館」と名付けられた。そしてそこが「地の高天原」と定められ、天地の神々の経綸場とされた。[3]
明治42年(1909年)5月下旬、竜門館の東側に大広間が造築された[4]。この大広間は後に受付として使用される。
間取り
大島景僕の家は出口の家を真似して作ったもの(同書p154)で、北側に間口一間の土間があり、東側に三畳が二間、四畳半、七畳半の計四部屋、渡り廊下を隔てて別荘と呼ぶ六畳の裏座敷(後に王仁三郎が「臥竜亭」と命名)がある。二階には七畳半が二間に三畳の計三部屋がある(同書p522~523)。
同書p155に竜門館の間取図と写真がある。
造築された大広間の間取は、四畳半、六畳二間、約三十畳の大広間で、襖を開けると五十畳近くになった。また二階にも広い部屋があった。(同書p655)
霊界物語の口述地
竜宮館(竜門館)は霊界物語の口述場所としても使われ、多数の章が口述されている。
本文に関しては、第3巻の一部、第4巻、第5巻の一部、第53~56巻、第60巻の一部、第62巻の一部、第63巻の一部。
序文・総説等に関しては、他の巻も多数が竜宮館で書かれている。