奥都城
奥都城(おくつき)とは、
- 古代日本におけるお墓の呼び方であり、神道形式のお墓を指す。
- 王仁三郎在世中における大本の奥都城は、出口直開祖の墓を指す。
- 現在における大本の奥都城は、出口直・王仁三郎を始め歴代教主・教主補の墓を指す。
- 大本信徒の墓も奥都城と呼ぶ場合もある。
本頁では大本教主の墓としての奥都城について解説する。
概要
- 奥都城は「奥津城」とも書く。霊界物語等の王仁三郎著作や過去の大本文献では「奥都城」と「奥津城」が併用されているが、現代の大本教団では「奥都城」に統一しているようである。
- 場所は、梅松苑から南西へ約2キロほど離れた綾部市田野町才ケ首の通称「天王平(てんのうだいら)一ノ瀬(いちのせ)」と呼ぶ山中にある。奥都城周辺には信徒の墓地や綾部市の共同墓地がある。
- 霊界物語には、主に第60~62巻の祝詞や讃美歌に出る。初出:第60巻第17章「崇詞」#
造営
大正7年(1918年)11月6日、出口直が昇天し、墓地が天王平の一ノ瀬に造ることになった。その土地は王仁三郎が前年の春に買収してあった[1]。12日に山開きが行われ、玉砂利を敷きつめて奥都城を造営した。27日に埋葬の儀が執り行われ(土葬)、昇天から一ヶ月後の12月6日に本葬が執行され霊璽が天王平に運ばれた。[2]
翌8年2月2日には奥都城に稚姫神社が造営され、稚姫君命の神霊が鎮祭された。[3]
天王平にはそれ以前から信者の墓が造られており、明治37年(1904年)6月5日に出口清兵衛(出口直の兄)が帰幽した時に初めて造られた。[4]
改築
大正9年(1920年)当局の圧力で奥都城の改築工事を行う。さらに大正10年(1921年)第一次大本事件の後にも改築工事を行った。
二月一二日、藤沼は検挙したばかりの王仁三郎に、はやくもこの問題をもちだしていた。警察の測量によると、墓所になっている一部および玉垣の大部分が、共同墓地の地域外に設けられている、というのが改築の理由である。また、墓の背後に社殿(稚姫神社)を造ってあるのが不法だというのである。しかしそれは名目上の理由で、すでに知事の認可がおりているものを、事件後になって改築を命ずるというのは、いうまでもなく大本にたいする圧迫の口実にすぎない。
宮脇京都府警察部長は五月二〇日、綾部町長西村源之助を通じて、開祖の墓地の一部をとりのぞくように厳命した。そこで西村町長は出口すみ子にその旨をつたえたところ、王仁三郎が不在であるので六月三日まで猶予してほしいと申し入れ、役員と協議することにして即答を保留した。その間に、大本にかねて好意をよせていた西村町長は、綾部警察署長をたずねたり、京都府庁に出頭して、改築反対の意見をのべたりして懇請につとめたが、松王衛生課長は、小原高等課長立会いのもとに、西村町長の懇請をはねつけ、六月中に改修を実行しないときは非常手段にでると言明した。そこでやむなく西村町長ば、翌六月五日に出口すみ子を町役場によびだした。すみ子は高木鉄男・桜井同吉とともに出頭したところ、綾部署川勝刑事ほか二人の立会いのもとに、改築すべきことを申しわたされたので、その日の午後五時、黄金閣に役員を招集して深更まで協議した結果、ついに自主的に改築することに決定した。新聞は、この苛酷な命令に反対した信者が発狂したとか、名残りをおしむ信者らが雨の中を土下座して祝詞を奏上したとかと報道しているが、じっさいに開祖の墓をとりこわすことは、幹部はもちろん信者にとってもはなはだ不満であった。また本宮山神殿も当局から取り壊しを命じられた。王仁三郎はこれら権力による圧力を利用して、教団改革を進めて行った。
六月一九日、出獄後における第一回の役員会が招集された。今後の宣伝方針については、極力治安当局を刺激しないよう配慮することになったが、墓地問題については、自発的に改修するという六月五日の決定をかえ、あくまでも改修には反対する方針がうちだされた。そして翌二〇日、栗原白嶺らが陳情訴願することに決定した。その陳情訴願の内容は、出口すみ子名儀で提出され、「……右側の一端が官憲の指示せらるる通りとするも、既に四年前に於て制規の手続の下に建設致したるものに有之候、幸にもその跨り在りと仰せらるる該地域は、自分等の所有にも有之候へば、此の場合、墓地及埋葬取締規則第一条による行政上の手続を経る事を以て寛大の御処分にあづかり度……」というように、条理をつくしたものであった。京都府警は強硬な態度を維持してゆずらず、再度の歎願もむなしくはねつけられた。墓地改修の命令が文書によって示達されたものではなく、圧迫の手段としてとられたものであることはあきらかであったから、「冷酷無理解なる京都府警察部の官権濫用」であると信者は憤激したが、王仁三郎は事態の切迫をみてとって、「教祖奥都城取毀しは、信者の自発的改心を迫られての、教祖の神霊の最後的手段である。信者が自覚しないので、官憲の手をかりで改心を迫られているのである」(「神の国」大正10・9)と説得につとめた。
六月二六日、改修奉告祭が執行され、改修委員出口慶太郎・上倉三之助・岡田熊次郎らが立会のうえ、二八日に工事に着工し、七月二三日に域工した。墓は長さ三間、巾二間半、高さ八尺に縮少され、石垣で囲われた。しかし開祖の遺骸には全然手はつけられなかった。
なお八月二〇日には、奥都城背後の稚姫神社の祖霊は教祖殿に仮遷座され、二八日旧社殿は焼却された。これは本宮山神殿の完成をまって、国常立尊の神霊と合体して正式に遷座すろ予定のものであった。
あいつぐ圧迫のなかで、王仁三郎は、事件後のあたらしい情勢に即応するよう教団の改革に着手した。この改革の目的は、「大正十年立替え説」を中心とする現実の世界の改革ではなく、信者の信仰内容の改革にあった。
(略)
そして、墓地改修はそのような古い信仰をすて、信者の改心をせまるための神霊の発動であるとのべ、改心とは本来、自他公私を明らかにすることで、その第一は敬神であると主張した。王仁三郎は、改築後の形状の方が当初の自分の計画通りの形であると述べている。
先づ地上より二尺五寸(約75cm)高いコンクリートの台を据え、其上に同じコンクリートで箱を作り、其中に御遺骸を納めた棺を入れ、蓋をなし、其上を又コンクリートで塗つて、所々に空気抜の穴を穿つてある。其上を又石で囲んであるので、地を掘つて埋葬しては無いのである。
因にこの奥津城は築き直されてからの方が、私の計画通になつて居るのは、不思議である。私が嘗て、こんな具合に築くのであると、描いて渡しておいた図面が、旧役員の所に残つて居るが、それを見た人達は驚き合つて居た。私は初めから今のやうな形にせうと思つて居たので、桃山御陵に似て居るとか云ふああした形にする積では無かつた。私の云ふ通りにして呉れないから、神様が官憲の手を借りて、本当のものに直されたのである。役員の中には奥津城を直させられたと云ふて、随分官憲の処置に憤慨して、矢釜しく云ふたものもあつたが、かう分つて見ると、どちらが悪いのか分つたものでは無い。破壊
昭和10年の第二次大本事件により、奥都城は当局の命令で破壊されてしまった。
再建・王仁三郎の昇天
第二次大戦後、奥都城は再建された。昭和22年(1947年)11月15日、再建工事が始まり、翌23年1月19日王仁三郎昇天に伴い、王仁三郎の奥都城が開祖の奥都城跡の横に造営された。王仁三郎の埋葬祭は2月2日に行われたが、開祖の奥都城が完成したのはその後の3月22日である。
二代教主以降
二代教主(ただし当時の肩書きは大本愛善苑苑主)の出口澄子は昭和27年(1952年)3月31日昇天し、4月10日に埋葬祭が行われた。
奥都城の位置については、後日、出口伊佐男総長からつぎのような発表があった。
「三人世の元」ということが明治三十年の頃からのお筆先にしばしば示されておりますが、一体その三人はどなたであるかということが、今日まで明確になっておりませんでしたが、それは開祖様、聖師様、二代様のお三方であるということが実にはっきりして来まして、その様子は奥都城に現われていると思うのであります。「世の元」とは勿論大本の基の意でありまして、厳瑞の奥都城を主体となし、奥の要にあたるところに二代様がお鎮りになり、お三方をもって一体としての奥都城となったのであります。このお三人により大本は磐石の如き動かぬ基礎が定まったのであります(「愛善苑」昭和27・7)。その後、
の奥都城も同所に造営された。
現在6基の奥都城が並んでおり、向かって手前右が出口直、手前左が王仁三郎、その奥二列目が中央に出口澄子、左に外れて出口聖子、三列目右が出口直日、左が出口日出麿の奥都城である。
礼拝の仕方
奥都城礼拝所の案内看板には次のような礼拝の仕方が記されている。
- 一揖二拝四拍手
- 天津祝詞(または神言)
- 惟神真道弥広大出口国直霊主命 守り給へ幸はへたまへ(二回)
- 惟神霊幸倍坐世(二回)
- 四拍手一拝一揖
脚注
関連項目
外部リンク
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