出口王仁三郎の歌碑
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出口王仁三郎の歌碑(でぐちおにさぶろうのかひ)とは、出口王仁三郎の和歌を刻んだ石碑のことである。
王仁三郎の在世中に建立された歌碑が約40基あるが、第二次大本事件によってほぼ全て破却された。そのうち一部は戦後再建された。また、戦後新たに建立された歌碑もある。
→出口王仁三郎の歌碑以外の石碑は「石碑」
歌碑建立の意義
『大本七十年史』は王仁三郎が歌碑を日本全国に建立した意義について次のように記している。
歌碑建立の意味については、〝よろづ代の道の礎固めむとわれ国々に歌碑を建つるも〟(昭和8・12)、〝末代の記念と建てし吾が歌碑のおもてに冴ゆる三五の月かげ〟〝五十あまり大石に歌を誌しつつ永久の生命を吾れ保つなり〟〝千引岩に思ひのたけの歌を彫りて千代万代の生命とやせむ〟(昭和10・6)と聖師によってうたわれている。
また歌碑の建設に関して「歌碑は台石をつけるものではない。台石をつければそれは石碑だ。本来底津岩根からはえている岩に彫りつけるのが歌碑だ。歌碑は地磐を石でかためて其上に石を置き、大地にはえたやうにし、自然石を適当にその周囲に配し芝生を植える。歌碑は自然石で建つべきである」という注意もあたえられている(「真如の光」昭和8・10)。{{#if:『大本七十年史 下巻』「聖師の巡教と歌碑}}|&mka={{#if:|{{{3}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{4}}} }} |-{{#if:|{{{4}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{3}}} }}|#{{#if:|{{{3}}} }} }} #」|}}また、木庭次守は次のように述べている。要約すると、日本列島を大三災から救うために、蟇目の法によって霊国(亀岡)天国(綾部)の霊場に、日本各地の霊場を結び合わせた、そのマツリゴトの大神業のしるしとして歌碑を建立したということになる。
出口聖師が宇宙の主神から重大なる神業をゆだねられた中の霊的神業として、日本列島を大三災から救うために、ヒキメの神法によって、鶴山にたつ天の御柱の霊の太柱と亀山にそそりたつ国の御柱の霊の太柱にマツリ合わせて、国土を永遠に安泰にたもつために、日本列島を幾度も巡笏された。
日本の国土中で最も神聖な霊の御柱のたつ霊国、天国の霊場に日本列島の各地の霊場とをむすび合わせられたのである。
この神の国日本列島の国土のマツリゴトの大神業のしるしとして打ち建てられたのが、出口聖師の歌碑の建設である。
聖師自作自演の映画「七福神」の中で、
吾こそは言霊清き蛭子なり 国のあちこち歌碑《うたぶみ》建つるも
と詠歌されたように、重大な意義を持っているのである。歌詞は神業の意義がひめられている。
よろづ代の道の礎固めむと われ国々に歌碑を建つるも
末代の記念と建てし吾が歌碑の おもてに冴ゆる三五の月かげ
五十あまり大石に歌を誌しつつ 永久の生命を吾れ保つなり
千引岩に思ひのたけの歌を彫りて 千代万代の生命とやせむ
聖師の歌碑は、神業の発動の内容と、惟神大本の大道の弥栄をたたえられたものであるから、歌碑を御神体として発揮される、瑞霊大神の神徳と神教の発展は、全く同じ道を進むものということができる。{{#if: 木庭次守「出口王仁三郎聖師歌碑集録」〔#参考文献〕|王仁三郎の在世中に建立された歌碑
(建立順)
- 熊野神社歌碑/綾部市(熊野新宮神社)/大正10年(1921年)1月建立/昭和43年(1968年)4月8日再建[1]
- (綾部)鶴山歌碑/綾部市(本宮山山頂に建立された三基の石碑のうち左側の石碑)/昭和6年(1931年)9月8日建立/
- (北海別院)神生歌碑/北海道富良野市/昭和7年(1932年)5月23日建立/昭和41年(1966年)9月11日再建[2]
- 東北別院歌碑/山形県飽海郡西遊佐村(東北別院)/昭和7年(1932年)11月22日建立/
- (喜界島)神声歌碑/鹿児島県大島郡喜界町/昭和7年(1932年)12月19日建立/昭和36年(1961年)12月15日再建[1]
- (島根別院)憧憬歌碑/島根県松江市/昭和7年(1932年)12月20日建立/昭和28年(1953年)12月8日再建[1]
- (島根別院)風景歌碑/島根県松江市/昭和7年(1932年)12月20日建立/昭和28年(1953年)12月8日再建[1]
- (島根別院)赤山歌碑/島根県松江市/昭和7年(1932年)12月20日建立/一部を再建
- (神刕別院)白雲歌碑/鳥取県西伯郡日吉津村/昭和8年(1933年)4月20日建立/再建
- 但州別院歌碑(一)(更生歌碑)/兵庫県豊岡市/昭和8年(1933年)4月22日建立/
- (台湾別院) 草山歌碑(憧憬歌碑)/台湾・台北市/昭和8年(1933年)8月8日建立/
- 九州別院歌碑(言霊歌碑)/熊本県鹿本郡吉松村/昭和8年(1933年)9月8日建立(注・これは除幕式の日。実際の建立は8月3日)/再建
- (北海別院)要巌歌碑/北海道富良野市/昭和8年(1933年)9月13日建立/
- 基隆別院歌碑/台湾・基隆市/昭和8年(1933年)9月20日建立/
- 八雲山歌碑/島根県大原郡大東町(八雲山)/昭和8年(1933年)10月10日建立/昭和44年(1969年)10月24日再建[1]
- (筑紫別院)大道歌碑/福岡県北九州市/昭和8年(1933年)11月8日建立/昭和30年(1955年)11月23日再建[1]
- (筑紫別院)国光歌碑/福岡県北九州市/昭和8年(1933年)11月8日建立/昭和30年(1955年)11月23日再建[1]
- 但州別院歌碑(二)/兵庫県豊岡市/昭和8年(1933年)11月12日建立/
- (天恩郷)教歌碑/亀岡市天恩郷/昭和8年(1933年)11月25日建立/昭和37年(1962年)8月7日再建
- (天恩郷)追懐歌碑(一)/亀岡市天恩郷/昭和8年(1933年)11月25日建立/昭和46年(1971年)8月6日再建
- (天恩郷)追懐歌碑(二)/亀岡市天恩郷/昭和8年(1933年)11月25日建立/昭和46年(1971年)8月6日再建
- (東山分院)霊泉歌碑/栃木県那須郡馬頭町/昭和9年(1934年)2月25日建立/
- 八木歌碑/京都府船井郡八木町/昭和9年(1934年)4月18日建立/
- 天王山歌碑/東京都渋谷区/昭和9年(1934年)5月5日建立/
- 関東別院歌碑/神奈川県横浜市(関東別院)/昭和9年(1934年)5月23日建立/
- (穴太)神聖歌碑(一)/亀岡市穴太/昭和9年(1934年)8月23日建立/
- (穴太)神聖歌碑(二)/亀岡市穴太/昭和9年(1934年)8月23日建立/昭和29年(1954年)8月11日再建(新詩のみ)[1]
- (北陸別院)言霊歌碑/石川県小松市/昭和9年(1934年)9月3日建立/昭和40年(1965年)10月18日再建[1]
- (能登別院)皇道歌碑/石川県鳳至郡穴水町/昭和9年(1934年)9月6日建立/
- 新居浜歌碑/愛媛県新居浜市(新居浜分院)/昭和9年(1934年)9月18日建立/昭和36年(1961年)6月30日再建[1]
- (佐世保別院)三六歌碑/長崎県佐世保市/昭和9年(1934年)9月26日建立/
- (有田分院)五六七歌碑/佐賀県西松浦郡有田町/昭和9年(1934年)9月27日建立/昭和34年(1959年)3月29日再建[1]
- (中国別院)向山歌碑/岡山県赤磐郡瀬戸町/昭和9年(1934年)10月31日建立/昭和42年(1967年)10月8日再建[1]
- (別格南海分院)三栖の歌碑/和歌山県西牟婁郡三栖村/昭和9年(1934年)11月19日建立/昭和39年(1964年)11月19日再建[1]
- 紀伊別院歌碑/和歌山県日高郡比井崎村(紀伊別院)/昭和9年(1934年)11月20日建立/
- 由良分院歌碑/鳥取県東伯郡由良町(由良分院)/昭和10年(1935年)2月20日建立/
- 地恩郷歌碑(静生館歌碑)/島根県平田市(地恩郷別院)/昭和10年(1935年)2月22日建立/破片を集めて再建
- 神聖歌碑(国東歌碑)/大分県速見郡中山香村/昭和10年(1935年)7月22日建立/昭和30年(1955年)5月8日再建[1]
- 城南別院歌碑/京都府相楽郡和東村(城南別院)/昭和10年(1935年)11月25日建立/
- 白梅歌碑/静岡県熱海市(海風閣)/建立日不明/
昭和9年10月までに建立された33基は昭和10年1月に刊行された『出口総裁歌碑集』に掲載されている。
王仁三郎の昇天後に建立された歌碑
- みてしろ発祥歌碑/熊本県阿蘇郡小国町/昭和38年(1963年)5月31日建立[1]
- 三朝別院歌碑/鳥取県東伯郡三朝町/昭和38年(1963年)10月6日建立[1]
- 竹田別院歌碑/兵庫県朝来郡和田山町/昭和41年(1966年)4月1日建立[1]
- 史蹟歌碑(賀露ケ浜歌碑)/鳥取県加露ケ浜/昭和42年(1967年)7月6日建立[1]:王仁三郎が詠んだ歌を出口直日が書いた文字を刻んだ歌碑。
- 皆神神社(皆神山):昭和46年(1971年)春建立[3]
- 上谷厄神神社:平成23年(2011年)4月建立[3]
建立が予定されていた歌碑
再建状況
【昭和49年(1974年)時点での再建状況】王仁三郎の歌碑は第二次大本事件によってほとんど破砕されてしまった。喜界島の神声歌碑、九州別院歌碑、新居浜歌碑、南海分院歌碑は破砕は免れ、削り取られた碑面に文字を彫り直して再建された。有田の五六七歌碑は文字を削られた傷跡をそのまま残して再建された。神刕別院の白雲歌碑は三つに割られたものを継いで再建された。大分の神聖歌碑(国東歌碑)だけはほとんど無傷のまま、一時、田圃の中に隠して埋められていたもが、再建された。その他に、新たに造り直して再建されたものが14基。戦後新しく建立されたものが6基。17基が未だ再建されていない。〔『おほもと』昭和49年(1974年)7月号、86頁~、窪田英治「国東歌碑と宇佐神宮」87頁(木庭「~歌碑集録」を元にしているようである)〕