「皆神山」の版間の差分

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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 完成した石の宮は、旧社殿跡二間四方に高さ三尺の石垣を積みあげ、その上に五尺四寸におよぶ総石造りのお宮があり玉垣がめぐらされている。使用された石材は国内三大産地の雄たる愛知県岡崎から二度も採掘厳選してきざまれただけに、山頂の神域にふさわしく、その麗姿はひときは四辺を圧して清く美しい。
 完成した石の宮は、旧社殿跡二間四方に高さ三尺の石垣を積みあげ、その上に五尺四寸におよぶ総石造りのお宮があり玉垣がめぐらされている。使用された石材は国内三大産地の雄たる愛知県岡崎から二度も採掘厳選してきざまれただけに、山頂の神域にふさわしく、その麗姿はひときは四辺を圧して清く美しい。
 前夜、この清宮を祓い清めて地元の氏子総代や本部の木庭教学委員ら立合いのもとに、皆神山社家武藤神官ならびに工藤大本長野分苑長と小山四郎氏が奉仕して、大本皇大御神のご神体と木花咲耶姫命のご神像(高さ38センチ・巾20センチ・厚さ10センチ)を新宮に鎮祭した。(略)
 前夜、この清宮を祓い清めて地元の氏子総代や本部の木庭教学委員ら立合いのもとに、皆神山社家武藤神官ならびに工藤大本長野分苑長と小山四郎氏が奉仕して、大本皇大御神のご神体と木花咲耶姫命のご神像(高さ38センチ・巾20センチ・厚さ10センチ)を新宮に鎮祭した。
 
(略)武藤皆神山神官は、出口聖地以来の大本との由縁を語り「この皆神山奥社は大本さんによって三度も再建していただいたわけだが、この度は、三度目の正直といおうか、石造りの末代のお宮を完成していただき心から感謝する」と挨拶。(略)
 
 皆神山は地教山の雛型として大本神業上有名だが、全国唯一の教主さまの歌碑もここにある。この度再建された石宮は、かつて穴太瑞泉苑の神域に建てられていた〝神聖神社〟のうつしであり、昭和三十一年の神殿再建時に教主さまが確められた木花咲耶姫命の神像(奥社伝来の木像)を祀る宮士浅間神社である。| }}
 皆神山は地教山の雛型として大本神業上有名だが、全国唯一の教主さまの歌碑もここにある。この度再建された石宮は、かつて穴太瑞泉苑の神域に建てられていた〝神聖神社〟のうつしであり、昭和三十一年の神殿再建時に教主さまが確められた木花咲耶姫命の神像(奥社伝来の木像)を祀る宮士浅間神社である。| }}



2024年7月28日 (日) 13:38時点における版

松代PAから見た皆神山。中央に山容全体が見える山が皆神山。一番手前右から中央にかけて見えるのは母袋山の尾根。一番奥に見える山脈は菅平高原。平成24年(2012年)10月撮影。
出口王仁三郎。皆神山の山頂にて昭和4年6月3日撮影。

皆神山(みなかみやま)は、長野市松代にある山。霊界物語においては地教山[1]と呼ばれる重要な山。山頂には出速雄命を祭る皆神神社(熊野出速雄神社)がある。

一般的情報

  • 標高659m(山麓の標高は北西部370m前後、東部440m前後なので高低差は200~300m)。山全体が溶岩で出来ておりドーム状をしている。
  • 太古に作られたピラミッドだという説がある。
  • 第二次大戦末期に大本営を作るため地下壕が多数掘られた。
  • 皆神神社境内の説明書によると(写真参照)、皆神山のかつての呼び名は「群神山」あるいは「水上山」で、慶長年間(1596~1615年)から「皆神山」と呼ばれるようになった。

皆神神社

昭和4年6月3日、王仁三郎が皆神山に登った時の記念写真。出速雄神社前にて。

奈良時代の養老2年(718年)に出速雄命(いずはやおのみこと)を祭る出速雄神社が創建された。中世に熊野権現を勧請。そのため「熊野出速雄神社」とも呼ばれる。ただし境内で一番大きい社殿は摂社の「侍従神社」(皆神山の修験道を完成させた侍従天狗坊を祭る)で、向かってその右側奥に「熊野出速雄神社」が、さらにその右側奥に大本が献納した「富士浅間神社」がある。

  • 由緒 - 皆神神社公式サイト
  • 境内図 - 皆神神社公式サイト
  • <wp>出早雄命</wp>

王仁三郎との関わり

  • 皆神山は世界の山脈十字形をなせる地であり、世界の中心地点である。[2]
  • 王仁三郎が明治31年の高熊山修行の際、一番最初に連れて行かれたのが富士山(天教山)と皆神山(地教山)であった。[3]
  • 王仁三郎は明治31年(1898年)清水の長沢雄楯のもとを訪ねた帰りに汽車の中で大石凝真素美と出会った。大石凝に言われて二人で皆神山に行った(そのとき行ったのか、日をあらためて行ったのかは不明)。[4]
  • 王仁三郎は昭和4年(1929年)6月3日[5]、皆神山に登山して言霊を奏上している。[6]
  • 皆神山は素盞嗚尊が初めて素焼きを作られた場所であり、これが陶器の作り始まりである。[7]
  • 皆神山には天照大神の墓があるらしい。しかし具体的にどこにあるのかは不明。[8]
  • 第二次大戦末期の大本営移転(首都移転)は、王仁三郎の経綸によるもの。[9] [4]
  • 皆神山は数十万年前の噴火によって出来た噴火口の跡にある。噴火口に出来た湖水の上に浮き出ていたので「水上山」と呼ばれるようになった。[10]
  • 霊界物語に「皆神山」という言葉は出ないが、第79巻第80巻に同音異字の「水上山(みなかみやま)」が登場する。
  • 昭和31年(1956年)9月、皆神神社境内に大本関係者によって木花咲耶姫神社(富士浅間神社)が建立された。[11]
  • 昭和46年(1971年)春、皆神神社境内に王仁三郎の歌碑が建立された。「地質学上世界の中心山脈の十字形せる珍の神山」「天霊の聖地に些しも違はざる尊き神山皆神の山」の二首が刻まれている。
  • 平成16年(2004年)9月26日、皆神神社境内に三代教主・出口直日の歌碑が建立された。「みすゝかるしなのゝくにの神山にともらつとひて世をいのらなむ」この歌は昭和29年(1954年)9月26日に皆神山山頂で執行された平和祈願祭に際して詠んだ歌である。

富士浅間神社

成尾陽「暁の大地」[12]によると、皆神神社境内にある富士浅間神社は石の宮で、神聖神社の"写し"だという。このお宮は昭和48年(1973年)に大本から献納・建立され、三代教主による「大本皇大神」の真筆と、もともと皆神神社に祭られていた木花咲耶姫命の木製の神像が奉斎された[13] [11]。その2年ほど前に機関誌上で、穴太の瑞泉苑に石の宮(神聖神社)を再建すると発表されたが、それが何らかの理由で皆神山に建てられたのだという。理由は不明。

愛善苑』昭和48年(1973年)1月号13頁の記事「皆神山に石の宮竣成」によると、石の宮は前年(昭和47年)12月3日に遷座祭が執行された。次のように説明されているが、なぜ穴太ではなく皆神山に建てることになったのか、理由は記されていない。

 完成した石の宮は、旧社殿跡二間四方に高さ三尺の石垣を積みあげ、その上に五尺四寸におよぶ総石造りのお宮があり玉垣がめぐらされている。使用された石材は国内三大産地の雄たる愛知県岡崎から二度も採掘厳選してきざまれただけに、山頂の神域にふさわしく、その麗姿はひときは四辺を圧して清く美しい。  前夜、この清宮を祓い清めて地元の氏子総代や本部の木庭教学委員ら立合いのもとに、皆神山社家武藤神官ならびに工藤大本長野分苑長と小山四郎氏が奉仕して、大本皇大御神のご神体と木花咲耶姫命のご神像(高さ38センチ・巾20センチ・厚さ10センチ)を新宮に鎮祭した。

(略)武藤皆神山神官は、出口聖地以来の大本との由縁を語り「この皆神山奥社は大本さんによって三度も再建していただいたわけだが、この度は、三度目の正直といおうか、石造りの末代のお宮を完成していただき心から感謝する」と挨拶。(略)

 皆神山は地教山の雛型として大本神業上有名だが、全国唯一の教主さまの歌碑もここにある。この度再建された石宮は、かつて穴太瑞泉苑の神域に建てられていた〝神聖神社〟のうつしであり、昭和三十一年の神殿再建時に教主さまが確められた木花咲耶姫命の神像(奥社伝来の木像)を祀る宮士浅間神社である。{{#if: |
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ギャラリー

写真は全て平成24年(2012年)10月に撮影。

関連項目

外部リンク

脚注

  1. ただしヒマラヤ山も地教山と呼ばれる。
  2. [[{{#ifexpr:381 < 250 |水鏡 |{{#ifexpr:381 < 462 |月鏡|玉鏡}} }}]]{{#if:信濃国皆神山 |「信濃国皆神山」 }}{{#if:|/ }}{{#if:|- }}}}|&mka={{#if:|{{{3}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{4}}} }} |-{{#if:|{{{4}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{3}}} }}|#{{#if:|{{{3}}} }} }} #:「信濃の国松代町の郊外にある皆神山は尊い神山であつて、地質学上世界の山脈十字形をなせる地であり、世界の中心地点である」
  3. [[{{#ifexpr:381 < 250 |水鏡 |{{#ifexpr:381 < 462 |月鏡|玉鏡}} }}]]{{#if:信濃国皆神山 |「信濃国皆神山」 }}{{#if:|/ }}{{#if:|- }}}}|&mka={{#if:|{{{3}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{4}}} }} |-{{#if:|{{{4}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{3}}} }}|#{{#if:|{{{3}}} }} }} #:「私は明治三十一年高熊山にて修行中、神懸りになつて、一番につれて来られたのが天教山の富士山と、この皆神山とである」、[[{{#ifexpr:337 < 250 |水鏡 |{{#ifexpr:337 < 462 |月鏡|玉鏡}} }}]]{{#if:模型を歩む |「模型を歩む」 }}{{#if:|/ }}{{#if:|- }}}}|&mka={{#if:|{{{3}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{4}}} }} |-{{#if:|{{{4}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{3}}} }}|#{{#if:|{{{3}}} }} }} #
  4. 4.0 4.1 新月の光』0632「大石凝先生との初対面」:「大石凝先生には長沢先生の家の帰り道、汽車の中で会ったので、王仁の事を話したら不思議な事だと言って一度来いと言われて、先生と信州の皆神山へ行ったのである。そうして先生は皆神山に陛下がおいでになると言われたので、王仁は神様に綾部と聞いていると言ったら、一番は皆神山だと言われた。」
  5. 大本年表
  6. [[{{#ifexpr:307 < 250 |水鏡 |{{#ifexpr:307 < 462 |月鏡|玉鏡}} }}]]{{#if:言霊奏上について |「言霊奏上について」 }}{{#if:|/ }}{{#if:|- }}}}|&mka={{#if:|{{{3}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{4}}} }} |-{{#if:|{{{4}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{3}}} }}|#{{#if:|{{{3}}} }} }} #:「大正八年以来、度々言霊奏上と云ふ事を皆でやつたことがあるが、あれは練習であつて、此度皆神山で奏上したのが、真の生言霊の発射であつた」
  7. [[{{#ifexpr:328 < 250 |水鏡 |{{#ifexpr:328 < 462 |月鏡|玉鏡}} }}]]{{#if:二代祖神 |「二代祖神」 }}{{#if:|/ }}{{#if:|- }}}}|&mka={{#if:|{{{3}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{4}}} }} |-{{#if:|{{{4}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{3}}} }}|#{{#if:|{{{3}}} }} }} #:「歌は「出雲八重垣」に始まり、陶器は皆神山の八甕(やつがめ)に初まつたのは人皆の知つて居る通りである」、[[{{#ifexpr:525 < 250 |水鏡 |{{#ifexpr:525 < 462 |月鏡|玉鏡}} }}]]{{#if:八十平甕 |「八十平甕」 }}{{#if:|/ }}{{#if:|- }}}}|&mka={{#if:|{{{3}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{4}}} }} |-{{#if:|{{{4}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{3}}} }}|#{{#if:|{{{3}}} }} }} #:「俗にカワラケ又はオヒラと云ふ八十平甕(やそひらか)は、素盞嗚尊様が信州の皆神山の土によつて創製されたものである」
  8. 新月の光0632「大石凝先生との初対面」:「皆神山には天照大神の御墓もあり、戸隠山も何もあって、古事記とは違っている」
  9. 新月の光』0525「御避難所」:「陛下の御避難所は信州皆神山に用意出来ている。道路も立派に出来ているのである。王仁が経綸に行った。」
  10. [[{{#ifexpr:413 < 250 |水鏡 |{{#ifexpr:413 < 462 |月鏡|玉鏡}} }}]]{{#if:噴火口と蓮華台 |「噴火口と蓮華台」 }}{{#if:|/ }}{{#if:|- }}}}|&mka={{#if:|{{{3}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{4}}} }} |-{{#if:|{{{4}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{3}}} }}|#{{#if:|{{{3}}} }} }} #:「本宮山、亀岡、皆神山は共に噴火口の跡にあるので蓮華台をなして居るのである。(略)水の上に浮き出て居つたから、水上山の名称が起つたのである。」
  11. 11.0 11.1 大本七十年史 下巻』「巡教}}|&mka={{#if:|{{{3}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{4}}} }} |-{{#if:|{{{4}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{3}}} }}|#{{#if:|{{{3}}} }} }} #」内「信州巡教と皆神山登山」:「一九五四(昭和二九)年九月、教主による皆神山登山があり(略)一九五六(昭和三一)年九月には長野主会と信越の宣信徒が協力して、皆神山に木花咲耶姫神社社殿が新築されたので、ふたたび教主の登山があった。一五日に亀岡をたって長野市に一泊し、一六日の完成祭に臨席した。地元松代町では商工会・氏子総代・松代大本会など全町をあげて協力し、祭典には八田町長・小林町会議長・町民・信徒等八〇〇余人が参拝、春原宮司が教主染筆の神体を、旧社殿の木花咲耶姫の木像とともに鎮祭した。祭典後、教主は松代町への社殿引渡し式をすまして、上田市へたちより、一九日に帰亀をみた。」
  12. みろくのよ』令和3年(2021年)6月号、成尾陽「暁の大地 第138回」、43頁
  13. ただし『大本七十年史』では昭和31年(1956年)9月に建立されと記されている。