「八雲山」の版間の差分
57行目: | 57行目: | ||
の短詩が詠われ三十一音の和歌を発祥した史跡である。以来、和歌は日本の国風《くにぶり》となり、歴代天皇はもとより国民も敷島の道を尊み学び詠い、また日本文化を貫く根本精神となった。<br> | の短詩が詠われ三十一音の和歌を発祥した史跡である。以来、和歌は日本の国風《くにぶり》となり、歴代天皇はもとより国民も敷島の道を尊み学び詠い、また日本文化を貫く根本精神となった。<br> | ||
伝承神話によれば、素盞嗚尊は八岐大蛇を退治されるや、この地に来り給い「我が心すがすがし」と須賀の宮居を築かれ、祝賀に妃櫛稲田姫が弓を盥《たらい》に結び梅枝で弦を打ち鳴らされた音に感動して〝八雲立つ〟の歌を詠われた。弓楽は弓太鼓と称し我が国絃楽の濫觴《はじめ》として古式〝歌祭り〟に伝わった。<br> | 伝承神話によれば、素盞嗚尊は八岐大蛇を退治されるや、この地に来り給い「我が心すがすがし」と須賀の宮居を築かれ、祝賀に妃櫛稲田姫が弓を盥《たらい》に結び梅枝で弦を打ち鳴らされた音に感動して〝八雲立つ〟の歌を詠われた。弓楽は弓太鼓と称し我が国絃楽の濫觴《はじめ》として古式〝歌祭り〟に伝わった。<br> | ||
八雲山の伝承を世に顕彰したのは大本の出口王仁三郎聖師で、昭和八年(十月十日<ref name="s81110" />)次の和歌三首を刻んだ歌碑が建立された。(後、誤まれる官憲の弾圧を受け破壊されている。)<br> | |||
千早ぶる神の聖跡《みあと》をしたいつつ八雲の山に吾が来つるかも<br> | 千早ぶる神の聖跡《みあと》をしたいつつ八雲の山に吾が来つるかも<br> | ||
八雲立つ出雲の歌の生れたる須賀の皇居《みやい》の八重垣のあと<br> | 八雲立つ出雲の歌の生れたる須賀の皇居《みやい》の八重垣のあと<br> |
2024年7月15日 (月) 14:15時点における版
八雲山(やくもやま)は、島根県にあり、記紀神話で素盞嗚尊が「須賀の宮」を築いた山。山頂に出口王仁三郎の歌碑がある。
出雲大社の本殿裏側(北側)にある八雲山とは異なる。
概要
- 標高424メートル
- 雲南市と松江市との市境にある。
- 南西(雲南市)の山麓には「須我神社」が、北東(松江市)の山麓には出雲国一宮[1]の「熊野大社」(戦前の名称は「熊野神社」)がある。両社とも素尊を主祭神とする。
- 南西の中腹に「夫婦岩」と呼ぶ巨石と祠があり、須我神社の奥宮になっている。
- 雲南市側の住所は
- 明治22年(1889年)大原郡海潮村(うしおむら)
- 昭和31年(1956年)大原郡大東町
- 平成16年(2004年)雲南市大東町
- 松江市側の住所は
- 明治22年(1889年)意宇郡熊野村
- 明治29年(1896年)八束郡熊野村
- 昭和26年(1951年)八束郡八雲村
- 平成17年(2005年)松江市八雲町
須賀と八雲
八雲山及びその近辺は古事記で「須賀」(日本書紀では「清地」「素鵝」「清」と表記)と呼ばれている場所である。しかし「八雲山」と呼ばれているわけではなく、また「須賀」は山だと記されているわけでもない。
記紀神話によると、素盞嗚尊(素尊)は八岐大蛇を退治した後、出雲に至り「わが心、清々《すがすが》し」と言って宮を作った。そのためこの地を「須賀」と呼ぶようになった。
素尊の「須賀の宮」は山頂にあった。その跡に神社が作られた。今は麓に移り、それが現在の須我神社である。
素尊が宮を作った時に、雲が立ちのぼり、素尊は歌を詠んだ。
その歌は「八雲《やくも》立つ 出雲八重垣 妻隠《つまご》みに 八重垣作る その八重垣を」という歌で、古事記で一番最初に記されている歌である(歌謡番号1)。王仁三郎はこの歌を「八雲神歌」と呼び、重要視した。 →「八雲神歌」
八雲山は別名「須我山」と言う。昔(戦前)は須我山という呼び方の方が主流だったようである。
出口王仁三郎との関わり
昭和7年(1932年)10月18日から29日まで、出口王仁三郎は澄子と共に竹田町愛善郷や山陰地方を巡教した。10月24日(旧9月25日)には八雲山に登り、頂上を神跡として整備するよう命じた。
山頂に小さな祠が建てられ、御霊代(みたましろ)には約30年前に山麓から発掘された古鏡(こきょう)を用い、大本八雲神社と名づけられた。
同年11月22日(旧10月25日)、大本八雲神社の鎮座祭が行われた。
昭和8年(1933年)11月10日(旧9月23日)[2]王仁三郎臨席で八雲神社の秋季大祭が行われ、その後、歌碑の除幕式が行われた。歌碑は「八雲山歌碑」と呼び、「八雲たつ出雲の歌の生《うま》れたる須賀の皇居《みやゐ》の八重垣の跡」という歌が刻まれた。歌碑の傍らに記念として小松が植えられた。歌碑の側面と裏が広かったため王仁三郎はそこにも歌を刻めと命じ次の二首を与えた。「大山《だいせん》は御空に霞み海は光《て》る出雲の国は錦の秋《あき》なり」「千早ふる神の聖跡《みあと》をしたいつつ八雲の山に吾《わが》来つるかも」。
第二次大本事件で八雲山山頂の八雲神社や歌碑も破却された。
昭和43年(1968年)6月24日、山頂のお宮が再建された。
昭和44年(1969年)10月24日、歌碑が再建された。
八雲山登山口に昭和40年(1965年)10月に建てられた案内看板には次のように記されている。
出雲国八雲山は、素盞嗚尊によって
八雲立つ出雲八重垣妻籠みに
八重垣つくるその八重垣を
の短詩が詠われ三十一音の和歌を発祥した史跡である。以来、和歌は日本の国風《くにぶり》となり、歴代天皇はもとより国民も敷島の道を尊み学び詠い、また日本文化を貫く根本精神となった。
伝承神話によれば、素盞嗚尊は八岐大蛇を退治されるや、この地に来り給い「我が心すがすがし」と須賀の宮居を築かれ、祝賀に妃櫛稲田姫が弓を盥《たらい》に結び梅枝で弦を打ち鳴らされた音に感動して〝八雲立つ〟の歌を詠われた。弓楽は弓太鼓と称し我が国絃楽の濫觴《はじめ》として古式〝歌祭り〟に伝わった。
八雲山の伝承を世に顕彰したのは大本の出口王仁三郎聖師で、昭和八年(十月十日[2])次の和歌三首を刻んだ歌碑が建立された。(後、誤まれる官憲の弾圧を受け破壊されている。)
千早ぶる神の聖跡《みあと》をしたいつつ八雲の山に吾が来つるかも
八雲立つ出雲の歌の生れたる須賀の皇居《みやい》の八重垣のあと
大山はみ空に霞み海は光る出雲の国は錦の秋なり
悠久の太古最初の和歌を生んだ八雲山上の風光は今に明媚なること天下第一で、発祥の和歌に秘められた、平和のこころを伝えている。
昭和四十年十月
参考文献
- 『真如の光』昭和7年(1932年)12月中旬号「神機の動き」21~22頁の「大本八雲神社鎮座祭」の報告記事。
- 『大本島根本苑五十年史』682~690頁、954頁
- 『大本七十年史 下巻』「聖師の巡教と歌碑}}|&mka={{#if:|{{{3}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{4}}} }} |-{{#if:|{{{4}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{3}}} }}|#{{#if:|{{{3}}} }} }} #」
- 「第20回霊界物語現地研修 素盞嗚尊の聖跡「八雲山」を訪ねる」、『いづとみづ』昭和60年(1985年)6月号、12~17頁
- 窪田英治「歌碑シリーズ(七)はるかな素尊の聖蹟に建つ島根県の「八雲山歌碑」を訪ねて──ゆかりの須我神社・熊野大社・八重垣神社・神魂神社も巡拝」、『神の国』平成11年(1999年)1月号、43~53頁
- 『随在天神 (205)』明治25年(1892年)、「出雲国須賀地須賀宮之考証」NDLDL蔵書
- 『古事記通釈』明治44年(1911年)、NDLDL蔵書
- 『島根県八束郡誌』大正15年(1926年)、NDLDL蔵書
- 『大原郡誌』昭和11年(1936年)、156頁~、NDLDL蔵書
- 『八束郡誌 本篇』昭和48年(1973年)、NDLDL蔵書