「出口大二」の版間の差分
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大正14年(1925年)12月7日(旧10月22日)、正式に縁組が解消される。<ref>『[[いり豆の花]] | 大正14年(1925年)12月7日(旧10月22日)、正式に縁組が解消される。<ref>『[[いり豆の花]]』669頁「九月二十六日、大二は出口王仁三郎の養子としての縁組を届け出る」、670頁「後日のことになるが、第一次大本事件後の大正十二年六月十八日(旧五月五日)直日(二十二歳)と大二(二十一歳)の結婚式が盛大に行なわれるが、半年後の十二月十六日王仁三郎は在綾信者に直日と大二の結婚問題の破局に至る顛末を発表し、大正十四年十二月七日正式に縁組が解消される」</ref> | ||
その後、大二は大本を離れた。 | その後、大二は大本を離れた。 |
2024年5月13日 (月) 01:47時点における版
出口大二(でぐち ひろつぐ)は、大本三代教主・出口直日の最初の夫。大二は大本名。旧名・吉田兌三(よしだ たいぞう)。
吉田竜治郎・つる夫妻の三男。姉に八重野と如衣(ゆきえ)、兄に一(はじめ)、等がいる。
大正3年(1914年)4月20日に弥仙山で行われた祭典の際に、当時13歳だった直日と12歳だった吉田兌三は、開祖出口直の言うがまま、訳の分からぬままに水杯を交わす。兌三は、4月9日に生後7ヶ月で帰幽した王仁三郎の長男・六合大(くにひろ)の生まれ変わり的存在と見なされて、澄子から直日の婿にと請われる。
翌月5月17日、兌三は綾部に移住して大本入りをする。六合大(くにひろ)を継ぐという意味で大二(ひろつぐ)と名付けられる。[1]
同年9月26日、正式に王仁三郎の養子となる。
大正10年(1921年)10月13日(旧9月13日)、第一次大本事件の責任を取る形で王仁三郎・澄子らは役職を下り、代わりに直日が教主に、大二が教主補に就任する。
大正12年(1923年)6月18日(旧5月5日)、直日と大二は結婚式を挙げる。[2]
しかし半年後の同年12月16日、王仁三郎は二人の結婚生活の破局を発表。
大正14年(1925年)12月7日(旧10月22日)、正式に縁組が解消される。[3]
その後、大二は大本を離れた。
〔主に「大本年表」「大本七十年史」、『いり豆の花』を参考にして作成した〕
脚注
- ↑ 『大地の母 下巻』271頁~279頁
- ↑ 「大本年表」、『大本七十年史 上巻』「新機運の動向}}|&mka={{#if:|{{{3}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{4}}} }} |-{{#if:|{{{4}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{3}}} }}|#{{#if:|{{{3}}} }} }} #」706頁
- ↑ 『いり豆の花』669頁「九月二十六日、大二は出口王仁三郎の養子としての縁組を届け出る」、670頁「後日のことになるが、第一次大本事件後の大正十二年六月十八日(旧五月五日)直日(二十二歳)と大二(二十一歳)の結婚式が盛大に行なわれるが、半年後の十二月十六日王仁三郎は在綾信者に直日と大二の結婚問題の破局に至る顛末を発表し、大正十四年十二月七日正式に縁組が解消される」