「硫黄谷」の版間の差分

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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──[[喜楽]]は[[矢田の滝]]へ修業に通い始めてから7日目、自宅を出て硫黄谷の大池のそばで、周囲一里あると言われている山間の大池の中に、2~3丈(6~9m)ばかりある背の高い赤い丸顔の男がいるのを見る。この怪物は池の水に腰あたりまでつかり、バサリバサリと自分の方へ向かって歩いて来るように見え、一心不乱に惟神霊幸倍坐世と称えながら池端を東へ走って行った。
──[[喜楽]]は[[矢田の滝]]へ修業に通い始めてから7日目、自宅を出て硫黄谷の大池のそばで、周囲一里あると言われている山間の大池の中に、2~3丈(6~9m)ばかりある背の高い赤い丸顔の男がいるのを見る。この怪物は池の水に腰あたりまでつかり、バサリバサリと自分の方へ向かって歩いて来るように見え、一心不乱に惟神霊幸倍坐世と称えながら池端を東へ走って行った。


医王谷の近辺には大小いくつかの池や沼があるが、硫黄谷の大池とは現在の中山池のことか?(地図参照)
医王谷の近辺には大小いくつかの池や沼があるが、「硫黄谷の大池」とは現在の中山池のことか?(地図参照)


鍬山神社はもともと医王谷に鎮座していた。→「[[鍬山神社#概要]]」
[[鍬山神社]]はもともと医王谷に鎮座していた。→「[[鍬山神社#概要]]」


また、平安時代中期の医者・丹波康頼(たんばのやすより。[[丹波哲郎]]の遠祖)が医王谷に住み、薬草を栽培し<ref>『京都府地名大辞典 上巻』1050頁右の「中山池」の項「医王谷にはかつて平安期の名医丹波康頼が住み、薬草を栽培していたという」。1420頁右の「矢田荘」の項。『同 下巻』495頁右の「下矢田町」の項「地内の医王谷は丹波康頼居住の地と伝えられ、一帯に珍奇な薬草が見られる」。</ref>、[[鍬山神社]]を崇敬していたと伝えられている。
また、平安時代中期の医者・丹波康頼(たんばのやすより。[[丹波哲郎]]の遠祖)が医王谷に住み、薬草を栽培し<ref>『京都府地名大辞典 上巻』1050頁右の「中山池」の項「医王谷にはかつて平安期の名医丹波康頼が住み、薬草を栽培していたという」。1420頁右の「矢田荘」の項。『同 下巻』495頁右の「下矢田町」の項「地内の医王谷は丹波康頼居住の地と伝えられ、一帯に珍奇な薬草が見られる」。</ref>、[[鍬山神社]]を崇敬していたと伝えられている。

2024年4月17日 (水) 03:56時点における版

明治21年頃の医王谷(硫黄谷)付近の地図。

硫黄谷(いおうだに)は、霊界物語に登場する谷。現・亀岡市下矢田町医王谷の、京都縦貫自動車道が通っているところ。一般には「医王谷」と呼ばれる。

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──喜楽矢田の滝へ修業に通い始めてから7日目、自宅を出て硫黄谷の大池のそばで、周囲一里あると言われている山間の大池の中に、2~3丈(6~9m)ばかりある背の高い赤い丸顔の男がいるのを見る。この怪物は池の水に腰あたりまでつかり、バサリバサリと自分の方へ向かって歩いて来るように見え、一心不乱に惟神霊幸倍坐世と称えながら池端を東へ走って行った。

医王谷の近辺には大小いくつかの池や沼があるが、「硫黄谷の大池」とは現在の中山池のことか?(地図参照)

鍬山神社はもともと医王谷に鎮座していた。→「鍬山神社#概要

また、平安時代中期の医者・丹波康頼(たんばのやすより。丹波哲郎の遠祖)が医王谷に住み、薬草を栽培し[1]鍬山神社を崇敬していたと伝えられている。

外部リンク

脚注

  1. 『京都府地名大辞典 上巻』1050頁右の「中山池」の項「医王谷にはかつて平安期の名医丹波康頼が住み、薬草を栽培していたという」。1420頁右の「矢田荘」の項。『同 下巻』495頁右の「下矢田町」の項「地内の医王谷は丹波康頼居住の地と伝えられ、一帯に珍奇な薬草が見られる」。