「大本年表」の版間の差分
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'''(2)''' 平成15年(2003年)に発行された『[[まつのよ (教学誌)|まつのよ]]』第6号の付録として「大本年表」という小冊子が付けられた。これには天保7年から平成15年(開教111年)までの略年表が記されている。[[大本教学研鑽所]]・編、表紙含め32頁。 | '''(2)''' 平成15年(2003年)に発行された『[[まつのよ (教学誌)|まつのよ]]』第6号の付録として「大本年表」という小冊子が付けられた。これには天保7年から平成15年(開教111年)までの略年表が記されている。[[大本教学研鑽所]]・編、表紙含め32頁。 | ||
オニペディアにおいて出典として記される「大本年表」とは、上記の(1)及び(2)のことである。 | '''オニペディアにおいて出典として記される「大本年表」とは、上記の(1)及び(2)のことである。''' | ||
'''(3)''' 大正時代に編纂された史料。[[三ッ野真三郎]]による説明を引用する。 | '''(3)''' 大正時代に編纂された史料。[[三ッ野真三郎]]による説明を引用する。 |
2023年11月20日 (月) 03:04時点における版
大本年表(おおもとねんぴょう)とは、
(1) 大本教学研鑽所が編纂した詳細な大本史の年表で、天保7年12月16日(1837年新1月22日)の出口直開祖誕生以降の大本の歴史が記されている。
昭和20年(1945年)12月8日まで約109年間の年表は、『大本教学』第5号から第18号まで10回にわたって掲載され、後に一つにまとめて冊子化された。
それ以降、昭和28年(1953年)12月31日まで約8年間の年表は、『まつのよ』第1号から第5号まで5回にわたって掲載された。
(2) 平成15年(2003年)に発行された『まつのよ』第6号の付録として「大本年表」という小冊子が付けられた。これには天保7年から平成15年(開教111年)までの略年表が記されている。大本教学研鑽所・編、表紙含め32頁。
オニペディアにおいて出典として記される「大本年表」とは、上記の(1)及び(2)のことである。
(3) 大正時代に編纂された史料。三ッ野真三郎による説明を引用する。
大本には「大本年表」と称されるB5版十五巻から成る部厚い史料がある。天保七年十二月十六日(旧)の開祖さまのご聖誕から、ご昇天の翌年の大正八年十二月二十四日(新)までの大本の〝歴史的〟記述書である。大正十年代に本部の史実担当者が記述したもののようである(その間の説明が付記されていない)が、ペンによる手書き史料で、変体がなまじりの清書、年代・期日が新・旧に表記されている。歴史的記録を趣旨としたようであるが、その大半は「筆先」である。歴史的事実にしても伝承によるため、一つの事実に二つ以上の記述が筆者の見解を加えず併記されていることもあり、確定史料としがたい難点もある。{{#if:『まつのよ』第6号p241、三ッ野真三郎「花、天より高く(下)」の最終頁 |}}
この大本年表に記されている筆先の一部は、『大本史料集成 Ⅰ思想篇』「第一部 出口なおの思想」に引用されている。編者の池田昭の「解題」によると、この大本年表は「大正十二、三年=一九二三、四年頃作成されたといわれる」「「神霊界」に発表されたものと未発表の原文に基づいたものから、構成されている。とくにこの後者は、出口王仁三郎以外の数人の幹部によって作成されている。これには、原文に基づいて修正された他のもの以上に、文章表現のうえからみて、原文をそのまま漢字に直したと思われるものがある」「「分類」の記号が記されているが、いまのところその意味はわからない」(同書p713-714)。