「四谷」の版間の差分

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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[[ファイル:四谷愛住町の昭和神聖会総本部.jpg|thumb|四谷愛住町の[[昭和神聖会]]総本部。]]
'''四谷'''(よつや)は、東京の地名。旧・東京市四谷区には、(1) 愛住町(あいずみちょう)に[[昭和神聖会]]総本部が、(2) 霞ヶ丘町(かすみがおかまち)に[[人類愛善新聞社]]が、(3) 須賀町(すがちょう)の[[須賀神社 (四谷)|須賀神社]]に[[確信会]]が、(4) 鮫河橋(さめがはし)に[[中村孝道]]が住んでいた[[産霊舎]]があった。
'''四谷'''(よつや)は、東京の地名。旧・東京市四谷区には、(1) 愛住町(あいずみちょう)に[[昭和神聖会]]総本部が、(2) 霞ヶ丘町(かすみがおかまち)に[[人類愛善新聞社]]が、(3) 須賀町(すがちょう)の[[須賀神社 (四谷)|須賀神社]]に[[確信会]]が、(4) 鮫河橋(さめがはし)に[[中村孝道]]が住んでいた[[産霊舎]]があった。


== 愛住町 ==
== 愛住町 ==
[[ファイル:四谷愛住町の昭和神聖会総本部.jpg|thumb|四谷愛住町の[[昭和神聖会]]総本部。]]
[[ファイル:四谷愛住町地図(大正元年).jpg|thumb|四谷愛住町76番地(赤矢印)近辺の大正元年(1912年)頃の地図。]]
[[ファイル:四谷愛住町地図(大正元年).jpg|thumb|四谷愛住町76番地(赤矢印)近辺の大正元年(1912年)頃の地図。]]
[[ファイル:四谷愛住町地図(昭和16年).jpg|thumb|四谷愛住町76番地(赤矢印)近辺の昭和16年(1941年)頃の地図。]]
[[ファイル:四谷愛住町地図(昭和16年).jpg|thumb|四谷愛住町76番地(赤矢印)近辺の昭和16年(1941年)頃の地図。]]
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=== 三島由紀夫の生家 ===
=== 三島由紀夫の生家 ===
三島由紀夫の生家は四谷永住町2番地にあった。昭和神聖会総本部があった愛住町76番地とは直線距離で約300mほどのところである。三島由紀夫は大正14年(1925年)生まれなので、昭和10年(1935年)当時は10歳くらいであった。
三島由紀夫の生家は四谷永住町2番地にあった。昭和神聖会総本部があった愛住町76番地とは直線距離で約300mほどのところである。三島由紀夫は大正14年(1925年)生まれなので、昭和10年(1935年)当時は10歳くらいであった。
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== 霞ヶ丘町 ==
== 霞ヶ丘町 ==

2022年6月24日 (金) 04:54時点における版

四谷愛住町の昭和神聖会総本部。

四谷(よつや)は、東京の地名。旧・東京市四谷区には、(1) 愛住町(あいずみちょう)に昭和神聖会総本部が、(2) 霞ヶ丘町(かすみがおかまち)に人類愛善新聞社が、(3) 須賀町(すがちょう)の須賀神社確信会が、(4) 鮫河橋(さめがはし)に中村孝道が住んでいた産霊舎があった。

愛住町

四谷愛住町76番地(赤矢印)近辺の大正元年(1912年)頃の地図。
四谷愛住町76番地(赤矢印)近辺の昭和16年(1941年)頃の地図。

大本の拠点となった四谷愛住町76番地の建物は、信徒の梅田きよの大きな二階建ての別荘である[1]。ここが昭和6年(1931年)以降、大本の東京における活動の重要な拠点の一つとなった。

昭和6年(1931年)4月か5月頃、人類愛善会東洋本部を霞ヶ丘町から愛住町に移す。[2]

同年8月25日、人類愛善会総本部の東京事務所を、東洋本部と同じく愛住町に移す。[3]

昭和9年(1934年)8月31日、昭和青年会本部を亀岡から愛住町に移す。[4]

同年10月19日、それまで交詢社ビル(京橋区銀座)の5階5号室に事務所があった昭和神聖会総本部を、愛住町に移すことを決定。同月27日に移転する。[4]

三島由紀夫の生家

三島由紀夫の生家は四谷永住町2番地にあった。昭和神聖会総本部があった愛住町76番地とは直線距離で約300mほどのところである。三島由紀夫は大正14年(1925年)生まれなので、昭和10年(1935年)当時は10歳くらいであった。

霞ヶ丘町

昭和5年(1930年)9月、人類愛善会東洋本部と人類愛善新聞社が亀岡から四谷区霞ヶ丘町16番地(日本青年館の西隣)[5]に移転し、人類愛善新聞は10月からそこで発行されるようになった。[6] [7] [8]

人類愛善新聞では、これを人類愛善運動の「東京進出」「中央進出」だと報じている[9]。また王仁三郎はこの年(月日不明)「神業を東にうつす大本は天地の神のふかき経綸」と歌を詠んでいる[10]

須賀町

須賀神社境内に置かれた確信会の事務所。

大正8年(1919年)10月、王仁三郎は鎌倉や東京を巡教した。それを機に「確信会」が10月19日に結成され、四谷区南寺町(現・須賀町)の須賀神社境内に事務所が置かれた。初代会長には浅野正恭が就任した。この確信会が東京における大本宣教の拠点となる。[11] [12]

大正15年(1926年)5月21日、確信会は王仁三郎の命名により「東京愛信会」と改称する。また場所も東京市麹町区山元町一丁目三番地に移った。[13]

鮫河橋

言霊或問』の奥付。「江戸四ッ谷鮫ヶ橋」と記してある。

中村孝道は鮫河橋の「産霊舎」というところに住んでいたことがあり、天保5年(1834年)9月そこで『言霊或問』を書いている。

鮫河橋(鮫ヶ橋)という地名は現在は残っていない。現在の若葉二丁目~同三丁目~南元町の辺りだが、範囲が広く、そのどの辺りに産霊舎があったのかは不明。

関連項目

外部リンク

脚注

  1. 大本関東教区七十年史』p108
  2. 大本関東教区七十年史』p131:「さらに日出麿先生は、四月二八日の午後九時過ぎ、東京駅に直日様とともにお着きになり、紫雲郷別院の開院式を中心に約一ヵ月滞在された。 駅からただちに和田堀の紫雲郷別院にお入り。翌日、産土神なる大宮八幡宮に参拝。以後、身体の各部に鈍痛をお感じになりながらご活動がはじまる。この間、人類愛善会の東洋本部が四谷愛住町七六に移る」
  3. 大本七十年史 下巻』「梅花運動}}|&mka={{#if:|{{{3}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{4}}} }} |-{{#if:|{{{4}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{3}}} }}|#{{#if:|{{{3}}} }} }} #」:「一方、同じ八月二五日、人類愛善会では、東京市四谷区愛住町にある東洋本部に、総本部の東京事務所をおき、そこで総本部の事務をとることとし、分会・支部の統轄機関として連合会を設け、本部・地方の組織体制が整備強化された」
  4. 4.0 4.1 昭和神聖会総本部日記 昭和9年}}|&mka={{#if:|{{{3}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{4}}} }} |-{{#if:|{{{4}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{3}}} }}|#{{#if:|{{{3}}} }} }} #
  5. 人類愛善新聞』昭和5年(1930年)10月3日号p1:社告「今般本紙を東京に移転、本社の所在地も決定致しました。(略)一、本紙新発行所─東京市四谷区霞ケ丘町十六番地(明治神宮外苑日本青年館西隣) 一、九月廿一日より新発行所に於て一切の業務を開始しました。」
  6. 大本七十年史 下巻』「満州巡教と世界紅卍字会}}|&mka={{#if:|{{{3}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{4}}} }} |-{{#if:|{{{4}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{3}}} }}|#{{#if:|{{{3}}} }} }} #」:「一九三〇(昭和五)年の四月一〇日には、人類愛善会総裁補に出口日出麿が就任し、さらにこの年の九月には、東洋本部および人類愛善新聞社を東京の四谷区霞ヶ丘町に移転し、「人類愛善新聞」は一〇月から東京で発行することになり、ここにいよいよ東京進出をむかえることになったのである」
  7. 人類愛善会総本部は亀岡。
  8. 大本年表」によると昭和5年(1930年)9月4日(旧7月12日)聖師誕生祭の時に移転が決定されたようである。
  9. 『人類愛善新聞』昭和5年(1930年)9月23日号p1
  10. 大本関東教区七十年史』p116
  11. 大本七十年史 上巻』「内地宣教の展開}}|&mka={{#if:|{{{3}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{4}}} }} |-{{#if:|{{{4}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{3}}} }}|#{{#if:|{{{3}}} }} }} #」:「王仁三郎の東行を期として、東京では四谷区南寺町七番地(須賀神社「天王さま」境内)に確信会が結成され、一〇月一九日には発会式がとりおこなわれた。そしてその初代会長には浅野正恭が就任した。この確信会が東京における大本宣教の拠点となるのである」
  12. 大本関東教区七十年史』p43:「この大正八年の出口聖師のご東行を機として、東京では四谷区南寺町七番地(須賀神社〝天王さま〟境内)に「確信会」(のちに愛信会)が結成され、一〇月一九日には発会式を執行、大神さまを奉斎した。確信会(写真)は東京およびその付近に住む有力な大本信者の集いで、相互の信仰の向上を図り、親睦を深め、本部との連絡を円滑にしようとするもの。その初代会長には浅野正恭、副会長には鉄道院技師の長屋修吉工学士が推された。例祭は毎一九日に、毎日曜には談話会を催すこととした。以後、この確信会が果たす東京での活躍は大きく、あらゆる面で大本の重要の拠点となったばかりでなく、これらの人脈を通して多くの人のつながりが展開していった。」
  13. 大本関東教区七十年史』p66