「万祥殿」の版間の差分

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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'''万祥殿'''(ばんしょうでん)は、亀岡の[[天恩郷]]にある神殿・拝殿。昭和33年(1958年)に完成。
'''万祥殿'''(ばんしょうでん)は、亀岡の[[天恩郷]]にある神殿。


万祥殿はもともと[[出口王仁三郎]]が、「[[花明山]]に万祥殿の建つ時はわが大本の道輝かむ」と歌を詠んで、その建設を急いでいたが、基礎工事が終わったところで[[第二次大本事件]]により破壊されてしまった。
# 昭和7年(1932年)から建設が始まり未完成のまま破壊された万祥殿
# 昭和33年(1958年)に完成した万祥殿


昭和33年(1958年)は開祖40年祭、聖師10年祭の年であり、また昭和3年のみろく大祭から30年目、3代教主・出口直日の56歳7ヶ月にあたる年でもあり、一つの大きな節目の年であった。それを記念する事業として、[[透明殿]]が建っていた跡に万祥殿を建設することになった。当時、綾部には[[みろく殿]]が建っていたが、亀岡にはまだ拝殿すらなかった。
の2つあり、両者は別のものであるが、便宜上、本項で一緒に解説する。


建設委員長に[[嵯峨保二]]、造営委員長に[[出口伊佐男]]、副委員長に[[大国以都雄]]が任命され、教団あげての体制が組まれた。
== 概要 ==
* 万祥殿は[[天恩郷]]の北部、現在の[[花明山植物園]]の温室がある辺りを敷地として、昭和7年(1932年)から建設が始まった。屋根の高さ18メートル、総銅葺き。総建坪555.5坪で、広前は1000畳敷きという大きな建物で、広前の3分の1は畳席、3分の2は椅子席とする構想だった。<ref name="B195402c5422">『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c5422|神苑の造営と祭事}}」</ref>
* [[王仁三郎]]は「[[花明山]]に万祥殿の建つ時はわが大本の道輝かむ」と歌を詠んで、その建設を急いだが<ref name="B195402c8241">『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c8241|造営}}」</ref>、基礎工事が終わったところで未完成のまま[[第二次大本事件]]を迎えた。
* 昭和33年(1958年)は開祖40年祭、聖師10年祭の年であり、また昭和3年のみろく大祭から30年目、三代教主・[[出口直日]]の56歳7ヶ月にあたる年でもあり、一つの大きな節目の年であった。それを記念する事業として、[[透明殿]]が建っていた跡に万祥殿を建設することになった。当時、綾部には[[みろく殿]]が建っていたが、亀岡にはまだ拝殿すらなかった。<ref name="B195402c8241" />
* 新しい万祥殿は神殿・拝殿・事務所の三棟からなり、鉄筋・木造併用の神殿造りに現代様式を取り入れた。礼拝殿には切妻造りの能舞台や、書院造りの茶室([[万祥軒]])がもうけられたのが大きな特徴である。<ref name="B195402c8241" />


昭和32年(1957年)8月7日の[[瑞生大祭]]に地搗き、10月3日に斧始めを行なう。
== 略年表 ==
* 昭和7年(1932年)2月16日、地鎮祭。<ref name="B195402c5422" />
* 万祥殿の建設はその後進捗せず、昭和8年2月には万祥殿完成促進委員が任命され促進が図られ、また11月の秋の大祭では参拝者によって砂利運び等の作業が行われ、昭和9年中に完成する予定だった。<ref name="B195402c5422" />
* 昭和10年(1935年)6月5日、斧始祭。<ref>『大本』(写真グラフ)p86</ref>
* 昭和10年(1935年)8月、まだ未完成の万祥殿の敷地に天幕を張り、聖師聖誕祭が行われた。(この年の10月には綾部の、やはり未完成の[[長生殿]]の敷地内で、大本大祭や開祖祭が行われた。それまでは綾部・[[五六七殿]]と亀岡・[[大祥殿]]で大祭が行われていたが、この年から長生殿と万祥殿で行われることになった)<ref name="B195402c5422" />
* 昭和32年(1957年)4月16日、地鎮祭。<ref name="B195402c8215">『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c8215|信徒一〇万}}」</ref>
* 同年8月7日の[[瑞生大祭]]に地搗き、10月3日に斧始めを行なう。<ref name="B195402c8241" />
* 昭和33年(1958年)8月6日に御神体が鎮座され、翌8月7日、瑞生大祭にあわせて完成奉告祭が行なわれた。10月7日には盛大な完成祝賀祭が開かれた。<ref name="B195402c8241" />


翌33年(1958年)8月6日に御神体が鎮座された。翌日の8月7日、瑞生大祭にあわせて完成奉告祭が行なわれ、全国から約4000人の信徒が参集した。
== 脚注 ==
<references/>


同年10月7日には盛大な完成祝賀祭が行なわれた。
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[[Category:大本の施設]]
万祥殿は神殿・拝殿・事務所の三棟からなり、鉄筋・木造併用の神殿造りに現代様式を取り入れた。礼拝殿には切妻造りの能様式の舞台や、書院造りの茶室([[万祥軒]])がもうけられたのが大きな特徴である。
 
三代教主・[[出口直日]]は、「これらの融合する一つの建物は、[[ミロクの世]]の雛形になるものと、ひそかに誇りを感じ…聖師様のご理想であった芸術と宗教の一致という、大本の教えから生まれて来たもの」と述べている。
 
 
 
== 参考文献 ==
*『[[大本七十年史]] 下巻』、1042頁・1090頁~1092頁
 
 
[[Category:大本の施設|はんしょうてん]]

2018年11月6日 (火) 09:26時点における版

万祥殿(ばんしょうでん)は、亀岡の天恩郷にある神殿。

  1. 昭和7年(1932年)から建設が始まり未完成のまま破壊された万祥殿
  2. 昭和33年(1958年)に完成した万祥殿

の2つあり、両者は別のものであるが、便宜上、本項で一緒に解説する。

概要

  • 万祥殿は天恩郷の北部、現在の花明山植物園の温室がある辺りを敷地として、昭和7年(1932年)から建設が始まった。屋根の高さ18メートル、総銅葺き。総建坪555.5坪で、広前は1000畳敷きという大きな建物で、広前の3分の1は畳席、3分の2は椅子席とする構想だった。[1]
  • 王仁三郎は「花明山に万祥殿の建つ時はわが大本の道輝かむ」と歌を詠んで、その建設を急いだが[2]、基礎工事が終わったところで未完成のまま第二次大本事件を迎えた。
  • 昭和33年(1958年)は開祖40年祭、聖師10年祭の年であり、また昭和3年のみろく大祭から30年目、三代教主・出口直日の56歳7ヶ月にあたる年でもあり、一つの大きな節目の年であった。それを記念する事業として、透明殿が建っていた跡に万祥殿を建設することになった。当時、綾部にはみろく殿が建っていたが、亀岡にはまだ拝殿すらなかった。[2]
  • 新しい万祥殿は神殿・拝殿・事務所の三棟からなり、鉄筋・木造併用の神殿造りに現代様式を取り入れた。礼拝殿には切妻造りの能舞台や、書院造りの茶室(万祥軒)がもうけられたのが大きな特徴である。[2]

略年表

  • 昭和7年(1932年)2月16日、地鎮祭。[1]
  • 万祥殿の建設はその後進捗せず、昭和8年2月には万祥殿完成促進委員が任命され促進が図られ、また11月の秋の大祭では参拝者によって砂利運び等の作業が行われ、昭和9年中に完成する予定だった。[1]
  • 昭和10年(1935年)6月5日、斧始祭。[3]
  • 昭和10年(1935年)8月、まだ未完成の万祥殿の敷地に天幕を張り、聖師聖誕祭が行われた。(この年の10月には綾部の、やはり未完成の長生殿の敷地内で、大本大祭や開祖祭が行われた。それまでは綾部・五六七殿と亀岡・大祥殿で大祭が行われていたが、この年から長生殿と万祥殿で行われることになった)[1]
  • 昭和32年(1957年)4月16日、地鎮祭。[4]
  • 同年8月7日の瑞生大祭に地搗き、10月3日に斧始めを行なう。[2]
  • 昭和33年(1958年)8月6日に御神体が鎮座され、翌8月7日、瑞生大祭にあわせて完成奉告祭が行なわれた。10月7日には盛大な完成祝賀祭が開かれた。[2]

脚注