「中村孝道」の版間の差分
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* [[出口恒]](和明の子息)は、宇能は中村孝道の娘だと考えていた。「宇能の父は有名な言霊学者・中村孝道だ」<ref>『[[誰も知らなかった日本史]]』63頁</ref>。 | |||
* 出口栄二は著書の中で「言霊学者中村孝道の妹にあたる祖母の宇能」<ref>『出口栄二選集 第一巻』(1979年、講談社)p111</ref>とも「彼の祖母は言霊学の大家中村孝道の娘で喜三郎に学問を教えた」<ref>『王仁三郎精神に生きる』(1999年、愛善世界社)p282</ref>とも書いている。 | * 出口栄二は著書の中で「言霊学者中村孝道の妹にあたる祖母の宇能」<ref>『出口栄二選集 第一巻』(1979年、講談社)p111</ref>とも「彼の祖母は言霊学の大家中村孝道の娘で喜三郎に学問を教えた」<ref>『王仁三郎精神に生きる』(1999年、愛善世界社)p282</ref>とも書いている。 | ||
2024年9月15日 (日) 06:39時点における最新版
中村孝道(なかむら こうどう、たかみち[1])は、言霊学者。王仁三郎の祖母・宇能の兄(諸説あり。「#王仁三郎との関係」参照)。
略歴
- 生年・没年不明。
- 船井郡八木町の生まれ[2]。
- 有栖川宮家の侍医だった[3]。
- 五十嵐政雄(篤好)『言霊真澄鏡』の「緒言」には──文化13年(1816年)に、日向国の老翁が京都へ出て、野山元盛という人に「上古に言霊といふ教あり」としてその教えを伝えた。同所の中村孝道がそれを受けて教えを人々に伝え、また近江国の望月幸智(大石凝真素美の祖父)が諸国に伝えた──ということが書いてある。
- 中村孝道は東京に住んでいたこともある。『言霊或問』は「江戸四ッ谷鮫ヶ橋(さめがはし)」(現在の新宿区若葉二丁目・三丁目・南元町の一帯[5])の「産霊舎」に滞在中に書いたものである。
王仁三郎との関係
王仁三郎は祖母・宇能から、中村孝道の言霊学を学んだ。
宇能は中村孝道の娘だとする説の他に、妹や姪だとする説もある。諸説あるのは、そもそも王仁三郎本人が妹だと言ったり娘だと言ったりしているためだと思われる。
- 王仁三郎による自伝「故郷乃弐拾八年」には「祖母は又彼の有名なる言霊学者中村孝道の家に生れた」[6]と書いてあり、娘とも妹とも明記されていない。
- 王仁三郎の歌集『浪の音』(昭和8年刊)p328には「わが祖母は言霊学者孝道翁の実妹にして八木嶋の産なり」[7]という歌があり、中村孝道の妹だと断言している。
- 木庭次守・編『新月の光』によると、王仁三郎は「うのさんのお父さんが中村孝道である」と語っており、宇能は中村孝道の娘だと明言している。[8] (ただし『新月の光』は王仁三郎の発言を信者が書き留めた如是我聞集を王仁三郎の昇天後に発表したものであり、王仁三郎の校閲を経ているものではない。そのため王仁三郎自身が書き記した文献や在世中に発表された文献よりは信憑性が低い)
- 井上留五郎『暁の烏』には、「うの子刀自はかの有名な国学者であり、かつ言霊学中興の偉人たる中村孝道氏の妹さんであります。中村氏は苦辛研究の結果自得したる言霊学を沢山の弟子のうちに受け継いでくれるもののないのに心淋しく思うておられたのであるが、自分の妹があまり学問に熱中しその当時のことであるから人目を忍んで勉強さるるのを見て、全部言霊学を教授されたのであります」[9]と記しており、宇能は中村孝道の妹だとしている。
- 『聖師伝』では、「祖母の宇能子さんは、かの有名な言霊学者・中村孝道の家に生まれた」[10]と記しており、「故郷乃弐拾八年」の記述を踏襲している。
- 『大本七十年史』では「祖母の宇能は中村孝道の家に生まれ」[11]と記しており、「故郷乃弐拾八年」の記述を踏襲している。
- 出口和明は著書の中で「宇能の叔父中村孝道は高名な言霊学者であり」[12]、「祖母の叔父中村孝道の」[13]、「宇能は言霊学中興の祖といわれた中村孝道の姪であり」[14]と記しており、宇能は中村孝道の姪であるとしている。
- 出口恒(和明の子息)は、宇能は中村孝道の娘だと考えていた。「宇能の父は有名な言霊学者・中村孝道だ」[15]。
- 出口栄二は著書の中で「言霊学者中村孝道の妹にあたる祖母の宇能」[16]とも「彼の祖母は言霊学の大家中村孝道の娘で喜三郎に学問を教えた」[17]とも書いている。
山口志道との関係
山口志道(杉庵思軒、杉庵志道)と中村孝道は同一人物だという説があるが、二人は別人である。[18]
『新月の光』によると、王仁三郎は「杉庵思軒と中村孝道は一しょに書いてあるが違うと思う。杉庵思軒は信州の皆神山から方々を廻って、比沼真奈井の神官になった人である」[19]と語っている。(ただしこれは王仁三郎の誤解だという指摘がある[20])
思想
(未作成)
主な著作
本人が書いたと思われる本。
- 『言霊或問(わくもん)』:天保5年(1834年)作。
本人が口述したり、講義したものを、他の人が筆録・編纂した本。
- 『言霊中伝』
- 『言霊奥伝』
- 『言霊聞書(ききがき)』
- 『言霊真洲鏡(ますかがみ)』:中村孝道が言霊舎の神谷孝信のために口述し、梛寺曽夢(そうむ)が筆記編纂したもの。天・地・物の三巻構成になっている。
- 五十嵐政雄『言霊真澄鏡 坤』:明治13年(1880年)刊。一之巻、二之巻。
- 五十嵐政雄『言霊真澄鏡 乾』:明治13年(1880年)刊。三之巻、四之巻、附録。
脚注
- ↑ 『神霊界』掲載の「故郷乃弐拾八年」には「たかみち」と振り仮名が振ってある。しかし全集第8巻掲載の「故郷の貳拾八年」では「かうだう」になっている。
- ↑ 『神霊界』大正7年(1918年)2月号「言霊の大要」p14「言霊学を初めて再興したる中村孝道は仝国船井郡八木町の産也」
- ↑ 『新月の光』0631「王仁と言霊学」
- ↑ 鎌田東二『言霊の思想』p143
- ↑ 須賀神社の東~南側
- ↑ 『神霊界』大正10年(1921年)2月1日号p45/『出口王仁三郎全集 第八巻』p23
- ↑ 「八木嶋(やぎのしま)」は現・南丹市八木町八木嶋のこと。
- ↑ 『新月の光』0631「王仁と言霊学」(昭和18年の発言)
- ↑ 『暁の烏』「(五)読み様(音読と黙読)}}|&mka={{#if:|{{{3}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{4}}} }} |-{{#if:|{{{4}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{3}}} }}|#{{#if:|{{{3}}} }} }} #」p68
- ↑ 『聖師伝』「6 幼少年時代}}|&mka={{#if:|{{{3}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{4}}} }} |-{{#if:|{{{4}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{3}}} }}|#{{#if:|{{{3}}} }} }} #」
- ↑ 『大本七十年史 上巻』「幼年期}}|&mka={{#if:|{{{3}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{4}}} }} |-{{#if:|{{{4}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{3}}} }}|#{{#if:|{{{3}}} }} }} #」
- ↑ 『大地の母 第一巻』「深山の草}}|&mka={{#if:|{{{3}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{4}}} }} |-{{#if:|{{{4}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{3}}} }}|#{{#if:|{{{3}}} }} }} #」
- ↑ 『大地の母 第一巻』「波濤の図}}|&mka={{#if:|{{{3}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{4}}} }} |-{{#if:|{{{4}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{3}}} }}|#{{#if:|{{{3}}} }} }} #」
- ↑ 『第三次大本事件の真相』p73
- ↑ 『誰も知らなかった日本史』63頁
- ↑ 『出口栄二選集 第一巻』(1979年、講談社)p111
- ↑ 『王仁三郎精神に生きる』(1999年、愛善世界社)p282
- ↑ 大宮司朗・武田洋一「大石凝真素美とその霊的遡源」(『大石凝真素美全集 解説篇』p48)によると、井上仁が『さすら』(神理研究会の機関誌)48号で「杉庵志道とは日本言霊学中興の祖である中村孝道先生のペンネームである」と書いたことが同一人物説が広まったきっかけらしい。
- ↑ 『新月の光』0633「杉庵思軒と中村孝道」(昭和18年の発言)
- ↑ 『大本言霊学』(八幡書店)p242で大宮司朗が「王仁三郎が「杉庵思軒は信州の皆神山から方々を廻って、比沼真奈井の神官になった人である」(昭和十八年)と誤ったことをいっている」と指摘している
関連資料
- 「出口王仁三郎聖師の祝祭空間4 雀のなく音聞きわけて─生言霊・音の祝祭─」『いづとみづ』昭和59年(1984年)11月号p10-15(著者不明だが文末に「S」とある)
- 鎌田東二『記号と言霊』p148-172「中村孝道の言霊論」
- 桑原恵「中盛彬の思想Ⅱ─「産霊」と「和歌」─」(徳島大学機関リポジトリ):中盛彬は中村孝道の言霊学を学んでおり、その著『ほどきぶみ』に中村孝道の言霊学が出てくる。