「竜神よ、我に来たれ!」の版間の差分

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'''竜神よ、我に来たれ!'''(りゅうじんよ われにきたれ)は、吉田大洋(古代史と紋章の研究家)の著書。p226~245で[[肝川竜神]]([[大国之宮]])について言及されている。
'''竜神よ、我に来たれ!'''(りゅうじんよ われにきたれ)は、吉田大洋(古代史と紋章の研究家)<ref>昭和10年(1935年)満州生まれ。早稲田大学文学部卒業。</ref>の著書。p226~245で[[肝川竜神]]([[大国之宮]])について言及されている。


昭和56年(1981年)に[[徳間書店]]から出版され、平成30年(2018年)に[[ヒカルランド]]から「新装版 竜神よ、我に来たれ」という書名で復刊された。
昭和56年(1981年)に[[徳間書店]]から出版され、平成30年(2018年)に[[ヒカルランド]]から「新装版 竜神よ、我に来たれ」という書名で復刊された。


== 概要 ==
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! 題名
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! 定価
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== 出雲大神宮宮司の談話 ==
241~245頁(徳間書店版)に、著者が亀岡の[[出雲大神宮]]に行った時の、広瀬宮司の談話が載っている。
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「彼は亀岡市穴太の小作農の長男坊で、上田喜三郎といった。風貌怪異な上に、髪をボサボサに伸ばしてね、女の子の尻ばかり追い回す。いまでいう〝ワルガキ〟だった。そんなわけで、うちの親父がしばらく預かり、学校へも入れた。<br>
 奇行の多い問題児でね、下駄をはいて、鳥居の上を歩いたりするんだ。彼のために親父は幾度も学校へ足を運んでいた。しかし、宗教界に入ってからは、メキメキ伸びた。素質があったんだろうね。<br>
 大本に入っても、亀岡へ戻ってくると、二日に一度はうちにやって来て、社殿の前に長いあいだ座り込んでいた。あれだけの傑物は、なかなか現われないんじゃないかな」|本書241~242頁}}
また、広瀬宮司は[[第二次大本事件]]の時、亀岡の警察から呼び出しを受け、次のように言われた。
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「宗教施設などはほとんど破壊したんだが、どうにも薄気味悪くて、手がつけられんどころがある。あなたは、王仁三郎をよく知っているそうだね。ちょっときて、見てもらいたいのだが……」<br>
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 広瀬さんは拝礼をした後、お社の扉を開きました。そして、見たのです。王仁三郎が奉じていた、本当の神さまを──。<br>
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「そうか。じゃあ、すぐに爆破しよう」<br>
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「ちょっと待ってください。お祓いをして、ご神体をとり出しますから」<br>
 と押しとどめて、広瀬さんは洞窟内へとって返しました。<br>
 当時を思い出しながら、広瀬さんは語ります。<br>
「僕が出てきたら、すぐにドカーンだった。祈祷所はこなごなに吹き飛んだ。神さんがアマテラスだったら、助かったんだろうけど……。それから、出雲の大神とは、オオクニヌシとミホツ姫のことだ。<br>
 新興宗教のほとんどは出雲系だよ。大本系やここから出た生長の家、神道天行居はむろんのこと、黒住、金光、天理もそうだ。本当の神さんを表に出さないのは、弾圧から逃れるためなんだが、教祖が他界し、二代目、三代目になると、何がなんだかわからなくなってしまう。<br>
 おまけに、保身用として、天孫系の神さんを迎えたりしているからね」|本書243~245頁}}
この「王仁三郎が奉じていた、本当の神さま」とは広瀬宮司や著者の解釈である。何をもって「本当の」と判断したのかは不明。単に洞窟の中に祭られていた神は出雲の神だったというだけである。
広瀬宮司とは昭和8年(1933年)9月に就任した広瀬伯紀だと思われる。その父親の広瀬侍郎は明治44年(1911年)5月に宮司に就任しているが、明治8年生まれであり、明治4年生まれの王仁三郎より年下である。従って「うちの親父がしばらく預かり」という広瀬宮司の話には信憑性がない。父親ではなく祖父ならば可能性としてあり得るが、広瀬家は出雲神社の社家であり千歳に住んでいる。それがなぜ離れた穴太の上田喜三郎と面識があったのか疑問がある。 →「[[出雲大神宮]]」に戦前の宮司一覧がある。
== 脚注 ==
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『竜神よ、我に来たれ!』(徳間書店版)の表紙

竜神よ、我に来たれ!(りゅうじんよ われにきたれ)は、吉田大洋(古代史と紋章の研究家)[1]の著書。p226~245で肝川竜神大国之宮)について言及されている。

昭和56年(1981年)に徳間書店から出版され、平成30年(2018年)にヒカルランドから「新装版 竜神よ、我に来たれ」という書名で復刊された。

概要

題名 竜神よ、我に来たれ!
副題 幸福を呼ぶ守護神の祭り方
著者 吉田大洋
発行日・発行所 昭和56年(1981年)12月31日 徳間書店
平成30年(2018年)9月 ヒカルランド
頁数 251(徳間書店版)
定価
OBN OBN:1855(徳間書店版)

出雲大神宮宮司の談話

241~245頁(徳間書店版)に、著者が亀岡の出雲大神宮に行った時の、広瀬宮司の談話が載っている。

「彼は亀岡市穴太の小作農の長男坊で、上田喜三郎といった。風貌怪異な上に、髪をボサボサに伸ばしてね、女の子の尻ばかり追い回す。いまでいう〝ワルガキ〟だった。そんなわけで、うちの親父がしばらく預かり、学校へも入れた。
 奇行の多い問題児でね、下駄をはいて、鳥居の上を歩いたりするんだ。彼のために親父は幾度も学校へ足を運んでいた。しかし、宗教界に入ってからは、メキメキ伸びた。素質があったんだろうね。

 大本に入っても、亀岡へ戻ってくると、二日に一度はうちにやって来て、社殿の前に長いあいだ座り込んでいた。あれだけの傑物は、なかなか現われないんじゃないかな」{{#if:本書241~242頁|
出典:本書241~242頁
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また、広瀬宮司は第二次大本事件の時、亀岡の警察から呼び出しを受け、次のように言われた。

「宗教施設などはほとんど破壊したんだが、どうにも薄気味悪くて、手がつけられんどころがある。あなたは、王仁三郎をよく知っているそうだね。ちょっときて、見てもらいたいのだが……」
 と言うのです。
 その薄気味悪いところとは、洞窟の中につくられた王仁三郎の祈祷所でした。鍵をこわして中へ入ると、正面に白木のお社が安置してありました。
「神さんをお祭りしているようです」
「どんな神さんかね」
「わかりません。ご神体は軽々しく見るもんではありませんから」
「あなたは宮司だろう。すぐに調べてくれたまえ」
 広瀬さんは拝礼をした後、お社の扉を開きました。そして、見たのです。王仁三郎が奉じていた、本当の神さまを──。
「出雲の大神さんです」
「そうか。じゃあ、すぐに爆破しよう」
 ダイナマイトを仕掛けようとする警官を
「ちょっと待ってください。お祓いをして、ご神体をとり出しますから」
 と押しとどめて、広瀬さんは洞窟内へとって返しました。
 当時を思い出しながら、広瀬さんは語ります。
「僕が出てきたら、すぐにドカーンだった。祈祷所はこなごなに吹き飛んだ。神さんがアマテラスだったら、助かったんだろうけど……。それから、出雲の大神とは、オオクニヌシとミホツ姫のことだ。
 新興宗教のほとんどは出雲系だよ。大本系やここから出た生長の家、神道天行居はむろんのこと、黒住、金光、天理もそうだ。本当の神さんを表に出さないのは、弾圧から逃れるためなんだが、教祖が他界し、二代目、三代目になると、何がなんだかわからなくなってしまう。

 おまけに、保身用として、天孫系の神さんを迎えたりしているからね」{{#if:本書243~245頁|
出典:本書243~245頁
}}

この「王仁三郎が奉じていた、本当の神さま」とは広瀬宮司や著者の解釈である。何をもって「本当の」と判断したのかは不明。単に洞窟の中に祭られていた神は出雲の神だったというだけである。

広瀬宮司とは昭和8年(1933年)9月に就任した広瀬伯紀だと思われる。その父親の広瀬侍郎は明治44年(1911年)5月に宮司に就任しているが、明治8年生まれであり、明治4年生まれの王仁三郎より年下である。従って「うちの親父がしばらく預かり」という広瀬宮司の話には信憑性がない。父親ではなく祖父ならば可能性としてあり得るが、広瀬家は出雲神社の社家であり千歳に住んでいる。それがなぜ離れた穴太の上田喜三郎と面識があったのか疑問がある。 →「出雲大神宮」に戦前の宮司一覧がある。

脚注

  1. 昭和10年(1935年)満州生まれ。早稲田大学文学部卒業。