「神聖神社」の版間の差分

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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* 昭和10年(1935年)2月7日(旧正月4日)、鎮座祭。
* 昭和10年(1935年)2月7日(旧正月4日)、鎮座祭。
* 神聖神社は石造であり、「'''石の宮'''」とも呼ばれている。
* 神聖神社は石造であり、「'''石の宮'''」とも呼ばれている。
* 神社を建立せよという神命は、すでに明治31年(1898年)王仁三郎に下っていた。その時の名称は「玉の井神社」であったが、東京に同名の神社があり、しかも芳しくないところがあったため<ref>墨田区の玉の井のことか? 玉の井稲荷という神社があるが、当時の玉の井は私娼街であった。<wp>玉の井</wp></ref>、再び神命によって「神聖神社」と命名された。<ref name="shinnyo_s100225">『[[真如の光]]』昭和10年(1935年)2月25日号、31~32頁の記事「{{obc|Z9044|神聖神社の鎮祭}}」に記された王仁三郎の挨拶。</ref>
* 神社を建立せよという神命は、すでに明治31年(1898年)王仁三郎に下っていた。その時の名称は「玉の井神社」であったが、東京に同名の神社があり、しかも芳しくないところがあったため<ref>墨田区の玉の井のことか? 玉の井稲荷という神社があるが、昔の玉の井は私娼街であった。<wp>玉の井</wp></ref>、再び神命によって「神聖神社」と命名された。<ref name="shinnyo_s100225">『[[真如の光]]』昭和10年(1935年)2月25日号、31~32頁の記事「{{obc|Z9044|神聖神社の鎮祭}}」に記された王仁三郎の挨拶。</ref> →「[[玉の井]]」
* 神聖神社は〈神聖会の霊界の中枢になるもの〉<ref name="shinnyo_s100225" />だと王仁三郎は教えている。
* 神聖神社は〈神聖会の霊界の中枢になるもの〉<ref name="shinnyo_s100225" />だと王仁三郎は教えている。
* 神聖神社の御神体は[[大宮守子]]([[鶴殿親子]]の大本名)が大正10年(1921年)に献上した玉・鏡・剣である(大宮守子も鎮座祭に列席している)。この神聖神社を中枢として昭和神聖会運動は全国に展開された。<ref>『[[新月の光]]』0198「昭和神聖会と神聖神社」</ref>
* 神聖神社の御神体は[[大宮守子]]([[鶴殿親子]]の大本名)が大正10年(1921年)に献上した玉・鏡・剣である(大宮守子も鎮座祭に列席している)。この神聖神社を中枢として昭和神聖会運動は全国に展開された。<ref>『[[新月の光]]』0198「昭和神聖会と神聖神社」</ref>
** 玉・鏡・剣という"三種の神器"を御神体としたことが、[[第二次大本事件]]の裁判で追及されている。
** 玉・鏡・剣という"三種の神器"を御神体としたことが、[[第二次大本事件]]の裁判で追及されている。
** [[出口和明]]は、神聖神社の三種の神器の剣は、[[熾仁親王]]が[[上田世祢]]に与えた守り刀に違いないと語っている。両刃で刃渡り15.1センチ、目くぎの脇に直径1センチの十六菊紋が刻まれていた。<ref>『[[誰も知らなかった日本史]]』67頁</ref>
* 祭典の前までは晴天だったが、祭典中に突然、大吹雪に見舞われた。王仁三郎は祭典後の挨拶の中で〈四十年来、旅行、或は祭典に臨席の日など絶対に雨、風、雪といふものがなかつたのであるが、今日の大吹雪は、神聖運動に従事する者にとつて一つの暗示と警戒とである、故に会員たるものは一段の自重と覚悟とが必要である〉<ref name="shinnyo_s100225" />と述べている。
* 祭典の前までは晴天だったが、祭典中に突然、大吹雪に見舞われた。王仁三郎は祭典後の挨拶の中で〈四十年来、旅行、或は祭典に臨席の日など絶対に雨、風、雪といふものがなかつたのであるが、今日の大吹雪は、神聖運動に従事する者にとつて一つの暗示と警戒とである、故に会員たるものは一段の自重と覚悟とが必要である〉<ref name="shinnyo_s100225" />と述べている。
* 神聖神社鎮座祭の前後は様々な祭典・行事が続いていた。鎮座祭3日前の2月4日は旧元日で、綾部で[[節分大祭]]が開かれた(この年は2月4日が節分だった)。6日には[[東光苑]](天恩郷内)で[[昭和青年会]]・[[昭和坤生会]]の総隊訓練が大吹雪の中で行われた。7日は午前11時から神聖神社鎮座祭が行われ、午後3時からは、昭和神聖会統管部となる[[透明殿]](天恩郷内)の完成祭が行われた。
* 神聖神社鎮座祭の前後は様々な祭典・行事が続いていた。鎮座祭3日前の2月4日は旧元日で、綾部で[[節分大祭]]が開かれた(この年は2月4日が節分だった)。6日には[[東光苑]](天恩郷内)で[[昭和青年会]]・[[昭和坤生会]]の総隊訓練が大吹雪の中で行われた。7日は午前11時から神聖神社鎮座祭が行われ、午後3時からは、昭和神聖会統管部となる[[透明殿]](天恩郷内)の完成祭が行われた。

2024年9月4日 (水) 05:44時点における最新版

神聖神社の鎮座祭。王仁三郎が玉串を奉奠している。
現在、神聖神社跡地には築山がある。

神聖神社(しんせいじんじゃ)は、昭和10年に穴太瑞泉郷に建立された神社。大吹雪の中、鎮座祭が執行された。

概要

  • 昭和9年(1934年)12月29日(旧11月23日)、竣成。
  • 昭和10年(1935年)2月7日(旧正月4日)、鎮座祭。
  • 神聖神社は石造であり、「石の宮」とも呼ばれている。
  • 神社を建立せよという神命は、すでに明治31年(1898年)王仁三郎に下っていた。その時の名称は「玉の井神社」であったが、東京に同名の神社があり、しかも芳しくないところがあったため[1]、再び神命によって「神聖神社」と命名された。[2] →「玉の井
  • 神聖神社は〈神聖会の霊界の中枢になるもの〉[2]だと王仁三郎は教えている。
  • 神聖神社の御神体は大宮守子鶴殿親子の大本名)が大正10年(1921年)に献上した玉・鏡・剣である(大宮守子も鎮座祭に列席している)。この神聖神社を中枢として昭和神聖会運動は全国に展開された。[3]
    • 玉・鏡・剣という"三種の神器"を御神体としたことが、第二次大本事件の裁判で追及されている。
    • 出口和明は、神聖神社の三種の神器の剣は、熾仁親王上田世祢に与えた守り刀に違いないと語っている。両刃で刃渡り15.1センチ、目くぎの脇に直径1センチの十六菊紋が刻まれていた。[4]
  • 祭典の前までは晴天だったが、祭典中に突然、大吹雪に見舞われた。王仁三郎は祭典後の挨拶の中で〈四十年来、旅行、或は祭典に臨席の日など絶対に雨、風、雪といふものがなかつたのであるが、今日の大吹雪は、神聖運動に従事する者にとつて一つの暗示と警戒とである、故に会員たるものは一段の自重と覚悟とが必要である〉[2]と述べている。
  • 神聖神社鎮座祭の前後は様々な祭典・行事が続いていた。鎮座祭3日前の2月4日は旧元日で、綾部で節分大祭が開かれた(この年は2月4日が節分だった)。6日には東光苑(天恩郷内)で昭和青年会昭和坤生会の総隊訓練が大吹雪の中で行われた。7日は午前11時から神聖神社鎮座祭が行われ、午後3時からは、昭和神聖会統管部となる透明殿(天恩郷内)の完成祭が行われた。
  • 神聖神社は第二次大本事件によって破却された。現在は跡地に玉石で築山が築かれ神籬の松が立てられている。
  • 信州の皆神神社境内にある「富士浅間神社」は大戦後に大本の献納によって建立されたが、このお宮は穴太に神聖神社を再建する予定だった石の宮を、何らかの理由で皆神山に建てたものらしい。→「皆神山#富士浅間神社

脚注

  1. 墨田区の玉の井のことか? 玉の井稲荷という神社があるが、昔の玉の井は私娼街であった。<wp>玉の井</wp>
  2. 2.0 2.1 2.2 真如の光』昭和10年(1935年)2月25日号、31~32頁の記事「神聖神社の鎮祭}}|&mka={{#if:|{{{3}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{4}}} }} |-{{#if:|{{{4}}} }} }}{{#if:{{#if:|{{{3}}} }}|#{{#if:|{{{3}}} }} }} #」に記された王仁三郎の挨拶。
  3. 新月の光』0198「昭和神聖会と神聖神社」
  4. 誰も知らなかった日本史』67頁