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'''栗原白嶺'''(くりはらはくれい、1872?<ref name="seinen">正確な生年は不明。『実業之日本』大正8年(1919年)7月1日号に掲載された栗原七蔵著「天の命ずる人の道に向つて」によると、その時48歳で、22年前(より厳密には21年半前)に入社した時は27歳だった。入社は明治31年(1898年)なので、数え年で22年目が大正8年(1919年)になる。年齢も数え年だとすると、明治31年(1898年)で27歳なら、明治5年(1872年)生まれになる。ただし『大本年表』や『大本七十年史』には昭和11年(1936年)3月に獄中死した歳の年齢を65歳としており、その時の王仁三郎の年齢を64歳だとしているので、王仁三郎より1歳上の明治3年(1870年)生まれの可能性もある。また新聞記事では昭和10年12月の検挙の時点での栗原白嶺の年齢が60歳だったり62歳だったり、まちまちである。『[[神霊界]]』大正8年(1919年)4月15日号p13に栗原七蔵の「入信の経路 参綾の動機」が書いてあるが、そこでは47歳になっている。</ref>~1936年)は、大本の幹部。[[霊界物語の筆録者]] | '''栗原白嶺'''(くりはらはくれい、1872?<ref name="seinen">正確な生年は不明。『実業之日本』大正8年(1919年)7月1日号に掲載された栗原七蔵著「天の命ずる人の道に向つて」によると、その時48歳で、22年前(より厳密には21年半前)に入社した時は27歳だった。入社は明治31年(1898年)なので、数え年で22年目が大正8年(1919年)になる。年齢も数え年だとすると、明治31年(1898年)で27歳なら、明治5年(1872年)生まれになる。ただし『大本年表』や『大本七十年史』には昭和11年(1936年)3月に獄中死した歳の年齢を65歳としており、その時の王仁三郎の年齢を64歳だとしているので、王仁三郎より1歳上の明治3年(1870年)生まれの可能性もある。また新聞記事では昭和10年12月の検挙の時点での栗原白嶺の年齢が60歳だったり62歳だったり、まちまちである。『[[神霊界]]』大正8年(1919年)4月15日号p13に栗原七蔵の「入信の経路 参綾の動機」が書いてあるが、そこでは47歳になっている。</ref>~1936年)は、大本の幹部。[[霊界物語の筆録者]]。実業之日本社の幹部を務めていたが大正8年に退社し大本の奉仕者となる。第二次大本事件で検挙され、昭和11年獄中で自殺を遂げた。本名は'''栗原七蔵'''。「白嶺」は実業之日本社時代から使っていた号。 | ||
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* 『[[若返る神秘]]』:昭和5年(1930年)3月、発行・[[人類愛善新聞社]]。[[愛善叢書]]第二編。 | * 『[[若返る神秘]]』:昭和5年(1930年)3月、発行・[[人類愛善新聞社]]。[[愛善叢書]]第二編。 |
2022年7月30日 (土) 21:55時点における最新版
栗原白嶺(くりはらはくれい、1872?[1]~1936年)は、大本の幹部。霊界物語の筆録者。実業之日本社の幹部を務めていたが大正8年に退社し大本の奉仕者となる。第二次大本事件で検挙され、昭和11年獄中で自殺を遂げた。本名は栗原七蔵。「白嶺」は実業之日本社時代から使っていた号。
略歴
- 明治5年(1872年)?[1] 福井市奥平町に生まれる。
- 明治31年(1898年)[2]実業之日本社に入社し『実業之日本』(明治30年創刊)の編集に携わる。
- 大正5年(1916年)、実業之日本社理事に就任する[3]。
- 大正8年(1919年)4月頃、綾部に修行に訪れている。[4]
- 大正8年(1919年)7月頃、実業之日本社を退社し、大本に入信して奉仕者となる。退社時には主査(経理部長兼製造部長)を務めていた[5]。
- 昭和10年(1935年)12月8日、亀岡で出口日出麿らと共に検挙される。検挙時の役職は大本総務。
- 昭和11年(1936年)3月9日、中立売警察署独房にて縊死。
福井市奥平町の生家跡には「栗原白嶺翁生家跡の碑」が建っている。[6]
参考文献
- 『実業之日本社七十年史』昭和42年(1967年)、実業之日本社
- 『実業之世界』大正8年(1919年)8月号、p124「栗原白嶺氏 信仰界に入る」
- 『実業之日本』大正8年(1919年)7月1日号、p70 瓊川生「白嶺栗原君の退社」
- 同上、p71~73 白嶺栗原七蔵「退社の辞 天の命ずる人の道に向つて」
- 『神霊界』大正8年(1919年)4月15日号、p13~15「入信の経路 参綾の動機」修行者 栗原七蔵(福井県四十七歳)
主な著書
- 『聖徒か逆賊か?』:大正12年(1923年)3月、発行・東京堂、580頁。小説。
- 『愛の根元は何?』:昭和4年(1929年)1月、発行・人類愛善新聞社。愛善叢書第一編。
- 『若返る神秘』:昭和5年(1930年)3月、発行・人類愛善新聞社。愛善叢書第二編。
- 『護国之神 肉弾三勇士 付・隠れたる八勇士の誉れ』:大和良作との共著。昭和7年(1932年)4月4日、発行・護国団、189頁。第一次上海事変における爆弾三勇士の評伝。
- 『金銀為本経済の世界的行詰りと皇道経済』:昭和10年(1935年)5月、発行・青雲社(綾部町)、44頁。栗原白嶺の講演録。
- 『神示と世相』:昭和10年(1935年)6月、発行・青雲社(綾部町)、発売・天声社、64頁。栗原白嶺の講演録。大本神諭に基づく世界の立替え立直しに対する世相の現れを述べたもの。
脚注
- ↑ 1.0 1.1 正確な生年は不明。『実業之日本』大正8年(1919年)7月1日号に掲載された栗原七蔵著「天の命ずる人の道に向つて」によると、その時48歳で、22年前(より厳密には21年半前)に入社した時は27歳だった。入社は明治31年(1898年)なので、数え年で22年目が大正8年(1919年)になる。年齢も数え年だとすると、明治31年(1898年)で27歳なら、明治5年(1872年)生まれになる。ただし『大本年表』や『大本七十年史』には昭和11年(1936年)3月に獄中死した歳の年齢を65歳としており、その時の王仁三郎の年齢を64歳だとしているので、王仁三郎より1歳上の明治3年(1870年)生まれの可能性もある。また新聞記事では昭和10年12月の検挙の時点での栗原白嶺の年齢が60歳だったり62歳だったり、まちまちである。『神霊界』大正8年(1919年)4月15日号p13に栗原七蔵の「入信の経路 参綾の動機」が書いてあるが、そこでは47歳になっている。
- ↑ 『実業之日本社七十年史』p35に、明治41年で栗原七蔵は在社10年と記されている。
- ↑ 『実業之日本社七十年史』p58、62に、理事兼主筆の石井勇の死去により、栗原七蔵が理事に就任したと記されている(主筆は別の者が就任)。
- ↑ 『神霊界』大正8年(1919年)4月15日号p13の「入信の経路 参綾の動機」で、「修行者」の栗原七蔵が「私は数日前に初て参拝した者であるが」と記している。
- ↑ 『実業之日本社七十年史』p188
- ↑ 福井県福井市 奥平(その3) - HEYANEKOの棲み家(へき地ブログ)