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'''ハルピン丸'''(はるぴんまる)は、霊界物語[[入蒙記]]に登場する船。
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入蒙記には書いてないが、実際にハルピン丸に乗ったのは7月22日(火曜)のようである。<ref>「[[大本年表]]」に7月22日の項に「聖師、大連からハルピン丸にて出帆」と記されている。</ref>


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== はるぴん丸 ==
入蒙記のハルピン丸は大阪商船が運航する船で、正式には片仮名ではなく平仮名表記の「はるぴん丸」である。
 
総トン数5169トン。この当時、大阪大連線は「はるぴん丸」「ばいかる丸」「あめりか丸」「香港丸」の4隻を使い週2回、大阪と大連を往復しており、途中、神戸と門司に寄港していた。<ref>{{Pid|978498/217|関東庁要覧}}(大正14年(1925年)4月、関東長官官房文書課発行)p384</ref>
 
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== 脚注 ==
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[[Category:霊界物語の船|はるひんまる]]

2022年6月27日 (月) 16:48時点における最新版

ハルピン丸(はるぴんまる)は、霊界物語入蒙記に登場する船。

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 七月二十一日三浦検事外三名の警察官に送られ大連の水上署に着き、此地より又二名の警官に送られ、ハルピン丸にて門司に着いた。航海中日出雄は船長以下乗客の依頼に応じて大本教義に関する演説を為し、沢山の揮毫をし、数多の信者に迎へられ、日本の玄関口に安着したのは七月二十五日の午前であつた。其光景は恰も凱旋将軍を迎ふるが如き有様であつた。{{#if: [[{{#switch:nm

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奉天の日本総領事館に収容されていた源日出雄出口王仁三郎)は、大正13年(1924年)7月21日(月曜)護送され中国の大連に到着。ハルピン丸に乗り、7月25日(金曜)午前、日本の門司に着いた。

入蒙記には書いてないが、実際にハルピン丸に乗ったのは7月22日(火曜)のようである。[1]

本来は三日後の7月24日(木曜)に到着予定のはずだが(下記参照)、実際には25日(金曜)に到着している。理由は不明。

はるぴん丸

入蒙記のハルピン丸は大阪商船が運航する船で、正式には片仮名ではなく平仮名表記の「はるぴん丸」である。

総トン数5169トン。この当時、大阪大連線は「はるぴん丸」「ばいかる丸」「あめりか丸」「香港丸」の4隻を使い週2回、大阪と大連を往復しており、途中、神戸と門司に寄港していた。[2]

大連を初日の午前に出港し、三日目の午前に門司に入港した。(ちなみに大連~門司間は614海里=1137kmある[3]

大正13年頃の発着スケジュールは、大連から毎週火曜と土曜の午前10時[4]に出港し、門司には木曜・月曜の午前9時[5] [6]に入港していた。(昭和4年(1929年)4月11日から船が1隻(うらる丸)増え5隻運航となり、週2回ではなく、三日ごとに出港するスケジュールに変わった[7]

脚注

  1. 大本年表」に7月22日の項に「聖師、大連からハルピン丸にて出帆」と記されている。
  2. 国立国会図書館デジタルコレクション蔵書『}} 関東庁要覧』{{#if:|(コマ目)}} PID:978498/217(大正14年(1925年)4月、関東長官官房文書課発行)p384
  3. 国立国会図書館デジタルコレクション蔵書『}} 大連港』{{#if:|(コマ目)}} PID:3464623/14(大正2年(1913年)発行)p6
  4. 国立国会図書館デジタルコレクション蔵書『}} 海 春之巻』{{#if:|(コマ目)}} PID:1557388/18(大正15年(1926年)4月、大阪商船発行)p31に「大連よりは毎週火曜、土曜日午前十時出帆」とある。
  5. 『海 第拾九号』p9に「復航門司着は従来大抵午前九時でありましたが」とある。
  6. 国立国会図書館デジタルコレクション蔵書『}} 鮮満北支感興ところどころ』{{#if:|(コマ目)}} PID:971954/85(大正12年(1923年)4月発行)p150によると、大正11年(1922年)10月17日(火曜)の午前10時出帆予定で(しかし積荷が遅れたため正午に出帆)、19日(木曜)午後1時半に門司に着いている。
  7. 国立国会図書館デジタルコレクション蔵書『}} 海 第拾九号』{{#if:|(コマ目)}} PID:1557392/5(昭和4年(1929年)5月、大阪商船発行)p5,p10